ギリシャの財政危機に端を発した欧州金融市場の動揺に対するEUの追加的な政策対応が、今週の初めにようやくまとまった。対応の一環として、欧州中央銀行(ECB)も国債の買い取りを決めた。これまでECBは、FT紙の表現を借りれば「財政政策と金融政策の境を曖昧にする措置(measures that blurred the boundary between fiscal and monetary policy)」には反対してきた。それが危機の圧力で「劇的に後退(a dramatic backdown)」させられることになった。
非伝統的な金融政策のうちでも、とくに「信用緩和」と呼ばれる範疇のものには財政政策的な要素がきわめて強いといえる。それゆえ、その種の政策にどれだけ積極的に取り組めるかは、その中央銀行が暗黙ないし明示的なかたちでの支援を財政当局からどれだけ期待できるかにも大きく左右されることになる。この論点については、VoxEU.orgにタイミングよく再掲されたBuiterのエッセイがとりあげており、有益な示唆を提供してくれている。本記事も、同エッセイに負うところが多い。
金融政策とは、本来的には「政策金利」と呼ばれる短期金融市場金利(日本であればコール・レート、米国であればFFレート)をコントロールするものである。しかし現在、ほとんどの先進国において政策金利は実質的にゼロまで下げられており、通常の「金利政策」という意味では、追加的な金融緩和の余地はなくなっている。そうした状況でなお一層の金融緩和効果を求める行動は、非伝統的(unconventional)な金融政策と呼ばれている。
非伝統的金融政策とは、簡単にいうと中央銀行のバランスシート自体を活用するものである(「バランスシート政策」)。そのうち負債側にかかわるものが「量的緩和(quantitative easing)」であり、それに対して資産側にかかわるものを最近は「信用緩和(credit easing)」と呼んでいる。
中央銀行の負債は、(政府預金を別にすると)準備預金残高と紙幣発行残高からなる。これらの合計をベースマネーと呼んでいる。このうち紙幣発行残高は、民間主体の現金需要に応じて受動的に供給されざるを得ず、中央銀行が制御できるものではない。そこで、準備預金残高をターゲットとしてその増加を図るのが、量的緩和である。
他方、中央銀行のバランスシートの資産側は、通常は、短期の安全資産(短期国債や、国債担保の短期貸し付けなど)からなる。こうした短期の安全資産に代えて、リスク資産や長期国債を購入するのが、信用緩和と呼ばれる措置である。今次の金融危機に際して、米連邦準備理事会やイングランド銀行は、こうした措置を大規模に採用していた。しかし、ECBは、そうした措置をとってこなかった。
短期の安全資産との入れ替えだけで、中央銀行のバランスシートの規模は一定に保たれる場合が、純粋の信用緩和であるが、リスク資産や長期国債の購入が売却する短期国債等の額を上回るときには、結果的に準備預金残高増にもつながるので、量的緩和にもなっていることになる(英米の現状は、そうなっている)。他方、量的緩和の場合にも、一定限度を超えて準備預金の増加を図ろうとすると、短期の安全資産の購入を通じてだけでは難しくなり、リスク資産や長期国債の購入に踏み込まざるを得なくなる。
政策金利や短期の金融市場金利がゼロ近傍にあっても、中長期の金利やリスク資産の利回りまでもがゼロに張り付いているのでなければ、中央銀行が長期国債やリスク資産の購入量を増やせば、何らかの効果が生じることはほぼ間違いない。1990年代の後半以降に日本銀行が実施した量的緩和政策にも、信用緩和的な要素が含まれており、その面からの一定の効果(とかなりの副作用)はあったとみられる。
しかし、信用緩和は、中央銀行がリスク・テイクを自ら行うというものであるから、損失が発生し、中央銀行の自己資本を毀損するリスクを伴う(長期国債にも、信用リスクはないとしても、金利リスクが伴う)。したがって、保有自己資本の範囲内、あるいは保有自己資本が毀損された場合に再資本化(re-capitalization)が保証されている範囲内においてしか、信用緩和を実施することはできない。それを超えた対応は、中央銀行それ自体の破綻を招きかねないからである。
中央銀行は、「紙幣を印刷できる」権能をもっているので、打ち出の小槌を持っていて何でも無限に買える存在であるかのように思っている人達も少なくないとみられる。しかし、真実はそうではない。そういうふうに思っている人達は、「現金需要」という概念が分かっていないといえる。確かに「現金需要」という概念は、経済学を学んだことがない者には理解しにくいところがあるが、以前に別の機会に解説したこともあるので、ここで詳説することは省略したい。
要するに、お金はいくらでもほしいのが人情であるとしても、現金の形態のままで持ち続けようとする額(これが「現金需要」である)は有限である(それ以上のお金が手に入ったら、ものを買ったり、株式に投資したりするなど、他の形態に移すはず)。それゆえ、現金供給を増やしたときには、それに見合う現金需要の増加が生じるような調整が(金利や物価水準、インフレ率の変化等々を通じて)起こる必要がある。
このことを踏まえると、造幣益(シニョレッジ、seigniorage)という形で中央銀行が動員できる実質的な資源の大きさは実は限られたものであると判断される(この点に関して、詳しくは前掲のBuiterのエッセイを参照されたい)。徴税権というかたちで、より基本的な資源の動員能力をもっているのは、財政当局である。それゆえ、財政当局による再資本化のための資源提供の保証(約束)がなければ、中央銀行が実施できる信用緩和の規模は限定的なものにとどまらざるを得ない。
ECBはその組織構造上、財政的な支援を得られる保証をもたない。ユーロシステムは、単一の中央銀行をもってはいるが、財政当局が各国ごとに分立したままである。こうした事情は、非伝統的金融政策に対するECBの姿勢を自ずと慎重なものとせざるを得ないものである。わが国についても、日本銀行を資源の動員先として期待する向きが増えているようだが、話は逆である。日本銀行にさらなる量的緩和(実際のところは、信用緩和)を求めるならば、それは財政的な支援で担保される必要があることに自覚的でなければならない。
なお、みんなの党の成長戦略(原案)の中に「政府から日銀に対し、例えば、2 0兆円の中小企業向けローン債権を政府保証を付与した上で、金融機関から日銀から買い取ることを要請できるようにする。」というのがあるが、これは「政府保証」という財政的支援を約束した上で信用緩和を求めるというものであり、その限りでは筋が通っている。もっとも「これにより、地域金融機関のローン債権がキャッシュに変わることで、貸出余力が高まり、有効需要創出の効果が期待できる。」というのは大いに疑問である。いまでも日本の金融機関は超過準備を保有しており、貸出余力はすでに有り余っているからである。
[蛇足]この記事を書いていて、改めて思ったが、信用緩和って要するに「政策金融」もどきのことを中央銀行がすることにほかならない。政策金融は「金融的手法をもちいた財政政策」だから、上記のことは当たり前で、こんなに小難しく書く必要はなかったかもしれない。しかし、金融政策と財政政策の基本的な区別もつかないで議論をしている論者も皆無ではないので、本記事にも多少の意義はあるだろう。
コメント
金融政策と財政政策の基本的な区別をするためには、 まずこれらを正確に定義する必要があります。
ひとつの定義は、 財務省が行うのが金融政策、 中央銀行が行うのが財政政策です。
もうひとつの定義は、 所得移転の調整を行うのが財政政策です。 これによると、 金融政策も、 預金者と借り入れ者間に、 所得移転の調整が行なわれ財政政策になります。
金融政策と財政政策の定義を、 どのように考えておられますか?
財政政策と金融政策の区別については、過去の記事「既視感が漂うデフレ脱却論議」の中で述べています。
http://agora-web.jp/archives/938282.html
--池尾
> 財務省が行うのが金融政策、 中央銀行が行うのが財政政策です。
これは、うっかり間違えました。 次のように訂正できますか?
財務省が行うのが財政政策、 中央銀行が行うのが金融政策です。
銀行の貸し渋りは保険機構が破綻寸前にあるというところが大きいと思います。第三セクター系の不良債権をゴロゴロ抱えてます。
みんなの党の案は零細企業を運営する立場的に大歓迎ですし、貸し渋りも解消されるかも知れませんが、それより大きい代償がどれくらい降りかかってくるか・・・☆