既視感が漂うデフレ脱却論議--池尾和人

池尾 和人

このところの経済状況には、ある種の既視感(デジャブ)が伴うところがあり、今日の日経「経済教室」欄で日本経済研究センターの竹内淳一郎・主任研究員が「デジャブ景気」と命名できるのではないかと書いていたほどである。デフレ脱却の方策をめぐる議論についても、「一度論じられた(決着のついた)問題を蒸し返している」といったものばかりで、2000年代前半時の繰り返しの感が強い。理論的・実証的に何か新しい示唆があるわけではない。


同じような議論が繰り返されるのは、不勉強で無理解とか、固定観念(バカの壁)に囚われてしまっているなどが理由として考えられるが、背景には、現下の閉塞した状況に対する鬱積した思い(私は、それを「一挙的解決願望」と呼んでいる)のようなものが基本的にあるのだろう。その意味では、現下のいわゆるリフレ論というのは、経済学的な議論の対象というよりも、むしろ特定の社会現象として社会(心理)学的な考察の対象とされるべきものだといえる。

ただし、私のような年配者にとっては、2000年代前半時の議論の蒸し返しであっても、いまの大学生くらいの世代にとっては実質的にはじめての話であったりするかもしれない。それゆえ、そうした若い世代のために、あえて若干の繰り返し(実は、むかし書いた本からの引用)をいとわないことにしよう。

まず前提として、何が金融政策で、何が財政政策かを確認しておく必要がある。政府純債務(財政赤字)の累積残高を決定することになる行為は財政政策と考えるべきであり、金融政策は、政府純債務(財政赤字)の累積残高を所与として、その何割を貨幣化するかの決定(公債と貨幣の入れ替え)であるといえる。野放図な財政政策をとり続ければ、インフレを引き起こすことは可能である。私自身の2003年時点での記述を引用すると、次のごとくである(『銀行はなぜ変われないか』中央公論新社、p.236)。

物価を上昇させることだけが目的なら、ヘリコプター・マネーのような政策(紙幣の印刷による政府支出の拡大または減税)を際限なくやれば可能であろう。しかし、その場合の政府正味資産の減少は、財政状態悪化の加速化を意味し、財政破綻とそれに伴う制御困難なインフレの発生というシナリオにむしろ可能性を開くことになる。また、それ以前に、(中略)そうした政策に伴う資源配分上のロスについても考慮する必要がある。「いまは非常時だから」という言い回しで思考停止して、この点の吟味を怠ってはならない。

ヘリコプター・マネーは、政府純債務(財政赤字)の累積残高を増加させるものである以上、財政政策である。マネーとついているから金融政策であるかのように思うのは、浅はかな誤りである。それゆえ、(私は反対であるけれども、)かりにそうした政策が必要であると考えるのであれば、その実行は、中央銀行に対してではなく、まずは政府・財務省に対して要求すべきである。そして、政府が法律改正を行い、中央銀行の独立性を剥奪し、国債の直接引き受けを命じれば、できるという話である。

また、誤解のないように付言すると、ヘリコプター・マネーは決してフリー・ランチ(ただ)ではなく、コストを伴うものである(それに酔っている間は、コストがないようにみえても、ひどい二日酔いを伴う)。資源配分のあり方に直接手を突っ込むような政策であるから、リアルな(たぶんマイナスの)経済効果をもつ。

なお、金利がゼロで貨幣の保有コストが意識されない間は、現金通貨需要は非常に弾力的で、無コストでマネー・ファイナンスが可能であるように思われる。しかし、その政策が「成功」して物価が上昇して金利がゼロでなくなれば、貨幣の保有コストが考慮されるようになって、現金通貨需要量は現在の規模以下に減少するはずである。

そのとき、中央銀行(あるいは政府)は、紙幣の還流に応じる必要が生じ、紙幣に代わる資産を民間に渡さなければならない。もし還流を拒絶するならば、金利がプラスになる必要のある状況で無理やり金利をゼロにするような政策をとることになり、インフレの加速化を招き、インフレ目標の上限を守れなくなってしまう。この意味で、貨幣発行益で財政支出や減税が行えると考えるのは、間違いである。

(同書のpp.236-7)

次に、本来の金融政策の範囲内で、デフレ脱却策を考えると、幸いなことにすでに基本的なことは岩本康志さんが整理してくれているので、その記事を参照してもらうとして、最大のポイントはコミットメントの可能性にある。

かつての私自身の記述を引用すると、次の通りである(同書のpp.226-7)。

金利が正で、貨幣需要の金利弾力性も有限である状況であれば、国債の買いオペによる貨幣供給量の増大が緩和効果をもつことは当然であり、それを認めない経済学者(および中央銀行関係者)はいない。問題は、金利が事実上ゼロになり、貨幣需要がきわめて高い(あるいは、無限の)利子弾力性をもつようになった状況において、そうした形の貨幣供給量の増大がどのような(そして、どのようにして)効果を持ち得るかである。

こうしたときには、クルーグマン流にいうと、「今日の」貨幣量を増やしても効果はなく、将来も貨幣量を増やし続けると中央銀行が約束し、その約束を多くの経済主体が信用するということになってはじめて、インフレ期待が生まれる可能性があるということではないか。しかも、貨幣需要が弾力的であればあるほど、ずっとずっと将来までの貨幣供給量の増大にコミットしなければ(できなければ)、物価水準に影響を与えることは難しくなる。

けれども、そもそも中央銀行がコミットする能力はどれだけ将来の貨幣供給量の値についてまであるのだろうか。たとえば、一〇〇年後の貨幣供給量の値を中央銀行が語ることはできても、その値を国民に信認してもらうことなどできるものなのだろうか。

筆者には、こうした点こそが議論のポイントであると思われるが、中央銀行の将来にわたるコミットメント能力の現実的評価などには関心を示さず、いたずらに「今日の」貨幣供給量を増やすことだけを主張している論者が日本には多いのではないだろうか。

このように2003年時点で疑問を提示したのであるが、納得のいく答えをいまのところまだ誰からももらっていない。信用されるような約束であるためには、その内容が事後的にも誘因両立的なものになっていなければならない。将来インフレにするといっても、それで実際にデフレから脱却できたら、脱却した後の時点では、インフレにするよりも物価安定を選ぶ方がよいということになって、事後的には約束を破る誘因が存在することになる(こういうのが時間的「非」整合性ね)。

とくに政府は、コミットが出来ない存在である。というのは、過去の法律をoverrideするような法律を後から通す権能を政府はもっているので、政府は自分で自分の手を縛ることができないからである。また、ある政権が、(政権交代があるかもしれないのに)その政権の任期後のことまでコミットできないのは当然である。中央銀行の総裁や審議委員の任期も有限であり、その任期後のことをコミットする能力には限界がある。

結局、中央銀行が本当にコミットできる内容は、事後的にも中央銀行が(国民経済にとって)望ましいと思う事柄だけである。例えば6%のインフレを目標するといっても、それが実現するようになると(デフレは脱却してしまっているので)そんな高いインフレ率は好ましくなくなるので、約束を破るに違いなく、それを正しく予測する国民によっては信用されないことになる。

これに対して、もし中央銀行がもっぱらインフレ率に関してだけ関心をもっているのであれば、1~2%という低めのインフレ率を目標として掲げることは、その実現は事後的にも好ましいので、信用される約束となり得る。かつて高率のインフレに悩んでいた英国をはじめとした諸国の中央銀行は、(少なくともその時点では)もっぱらインフレ率にのみ関心があるといってよい状態であったので、低めのインフレ率を目標として掲げることは適切なコミットメントたり得るものであり、金融政策の有効性を高めることにつながったといえる。

しかし、一般的には、中央銀行の関心事項はインフレ率だけに限定されるものではない。景気や失業率はいうまでもなく、為替レートを含む資産価格の動向や金融システムの安定性に、中央銀行が関心をもたなくていいということにはならない。そうであるとすると、インフレ目標という1つの数字(あるいは範囲)でコミットを行うことは不可能だということになる(望ましい状態を1つの数字では表現できない)。日本銀行は、どちらかというと、こうした考え方をとっているのではないかと思われる。

実際、インフレーションターゲティングの枠組みを明示的に採用している国々においても、近年は、厳格なものから「伸縮的な」インフレーションターゲティングに変わってきている。例えば、英国の直近のインフレ率は3%程度で目標値の2%を上回っているけれども、これは付加価値税の税率を危機対応で引き下げていたのを元に戻したことによるもので、景気は引き続き低迷しているとして、イングランド銀行は緩和策を継続している。

このように近年は、インフレーションターゲティングといっても目標値を「伸縮的に」解釈するようになってきていて、その分、コミットメントとしての性格が薄れてきている。また、今般の金融危機の経験から、インフレーションターゲティングの枠組みにおいては物価に過度に関心が集中することになって、金融・経済面での他の不均衡の累積を見逃してしまいがちではないかという議論もある(参考)。

インフレ目標云々の議論をするときには、こうしたコミットメントの問題について自覚的であることが最低限必要だと考える。なお、インフレ目標政策(*)による一挙的解決という願望的な話ではなく、日本経済の低迷を克服するために本当にしなければならないことは何かについての私自身の考えは、昔からいろいろな機会に主張しているので、例えば『銀行はなぜ変われないか』の第5章とかをみて下さい。

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(*)インフレーションターゲティングは、金融政策運営の枠組み(フレームワーク)に関わることなので、その後に政策をつけて、inflation targeting policy とか普通は言わない。インフレ目標政策とか言うのは、日本の一部の論者だけ。

コメント

  1. indy_k より:

    量的緩和などの非伝統的な金融政策のコストについてですが、池尾先生は09年11月29日付の朝日新聞「耕論」において、量的緩和には「なにがしかの効果が期待できる」として、今の日本が「デフレスパイラルに落ち込むリスクが非常に強くなるなら量的緩和をやるべきだ」が、「スパイラルに落ち込む確度は高くない現状では今の金融緩和策を継続して効果が出るのを待つべき」と述べています。
    スパイラルのコスト(副作用)は量的緩和のそれを上回るということだと思いますが、飯田泰之先生がご自身のブログで「(それぞれの国は)それぞれその国でのバブルに対する政策手段をもっているので、それに対して日本がとやかく考える必要はない」としています。
    もしそうだとすればスパイラルではない現状でも量的緩和をやってみる価値がありそうな気もするのですが...(ただしこのエントリーにあるコミットメント――量的緩和下の有効なコミットメントについては良く分かりませんが。)

  2. kazikeo より:

    ちょっと後半のロジックが理解不能なだけれども、過剰流動性を輸出することになっても、(相手国が何とかすればいいので)知ったことではないという話かな。自分さえよければよいということでしょうか?

  3. indy_k より:

    そういうことです。ただ、相手国がなんとかするので、単なる自分よがりにはならない、ということです(だと思います)。
    前半ですが、デフレスパイラルになりそうだったら量的緩和をやってもいい、という池尾先生のスタンスはどういうロジックになりますか?

  4. kazikeo より:

    そういった議論が成り立つなら、第二次大戦前に行われた「為替切り下げ競争」も正当なものだったということになりますね。戦後、IMF-WTO体制の下で、為替の水準に人為的に影響を与えるような介入を原則認めていないのはどうしてなのでしょうね。

    前半のロジックは、あなたが想像されているようなものです(ブレトンウッズ体制の下でも、「基礎的」不均衡が生じた場合には為替レートが変更できた)。ただし、正確できっちりした説明をしようとすると、1つ記事を書かなければならないので、別の機会にします。

  5. indy_k より:

    私が想像していたのは、(日本のような大国が)デフレスパイラルのような事態になれば、それは世界経済にとってむしろより大きな副作用をもたらすから、そうなれば量的緩和の副作用程度のことであればやった方が良いでしょう、というものでした(私のレベルはそんなものです)。であればそうなる前に量的緩和でも何でもやってしまえば、という議論もあり得るのかなと、思った次第です。
    リフレ派と反リフレ派の議論をみていると、一方は、少しでも効果があるんだったらやるべきだ、他方は、効果は大したことはない(むしろ副作用のほうが大きい)、と主張していて、結局は、日本のデフレをどう評価するのか、副作用をどう評価するのかで見方が分かれているような気がしたので色々と質問させていただきました。
    ゼロ金利下では全く効かない、あるいは、非伝統的な金融緩和では必ず副作用のほうが大きくなる、ということであればすっきりしていて良かったのですが...(私のようなアマチュアが池尾先生のような方に質問して、直接答えていただける――素晴らしい世の中になった、と正直思います)。
    ぜひ、ひとつの記事をお立てになってご教授下さい。