日本の政治を変えることができるのはインターネットだけではない --- 江鳩 竜也

アゴラ

若者の政治離れが問題視されて久しい。日本では政治に無関心な人が多く、無党派層という政治的立ち位置を明確に打ち出していない人が、国民の半数に上る。特に若者と呼ばれる人達の間ではその傾向が顕著で政策課題としても議論されているところである。
 


そこで、昨年の参議院選挙以来、いわゆる“ネット選挙活動”が解禁された。そもそもこの“ネット選挙活動”の解禁の背景は、選挙期間中に候補者の政策に有権者がアクセスできないのは可笑しい、という議論であった。つまり、有権者のアクセス権の拡大であった。

しかし実際には、インターネットを如何に有効的に活用することで支持拡大を得ることができるかと候補者・政党は苦心することになる。実例として、インターネット中継を用いた政策討論会などの試みは、ネット世代の若者にとって新鮮であったことは事実だろう。それが転じて、「インターネットが日本政治を変える」という新しいムーブメントが起こるようになる。
 
本稿では、「インターネットが日本政治を変える」という“新しい若者”の論点に死角はないのか、忘れ去られたものはないのか、それを検討することが主題である。

そもそも“政治”とは何なのか。この一見簡単そうに見えて、実に難解な問題の提起から議論を始める必要があるだろう。

しかし、政治学の教科書に出てくるような「権力者の……」といった講釈をしたい訳ではない。そうした小難しい議論が若者の政治離れの一因になっている一つの要因であると考えるからだ。「権力者の……」といった議論を尽くしたところで、今の日本が抱える諸問題を解決することはできない、辟易だ。といったのが率直な感想なのではないだろうか。

私は政治学の研究者として、また一人の政治の実務者として日本政治の一端に携わる機会を得た。その中で感じた“政治”とは何か。それは、「私とあなたの関係」であると定義することができた。二人以上の人間が集まる時、そこには様々な関係性が存在し、またその関係性を維持・発展するに当たっては、ある種の規制や、議論・妥協が生まれる。その二人以上の人間が発展すると、村になり、町になり、そして国に発展していく。これが政治なのではないだろうか。私はそのように考える。

議論を「インターネットが日本政治を変える」のか否かの検討に戻したい。
 
そもそもそうした主張がなされる背景には伏線があった。中東で起きた民主化運動の原動力としてTVの衛星放送の役割。“アラブの春”と呼ばれるアフリカ北部の民主化で用いられたFacebookやYouTubeなどインターネット技術の役割。古くは、活版印刷技術の発展が宗教革命をもたらし、フランス革命へつながって世界中に民主化や人権といった新しい政治思想を生みだしたことである。総じて言えば、通信・伝達手段の発展が世界を変える原動力となってきた、と見ることも可能だろう。
 
しかしそれだけなのだろうか。通信・伝達技術の発展が政治を変える、という視座のみでいいのだろうか。私はその様に考え、疑問を感じざるをえない。昨今主張される「インターネットが日本政治を変える」というのは、この様な伏線に乗ったものではないだろうか。

繰り返しになるが、私は政治を「私とあなたの関係」であると定義づけた。伝達・通信技術の発展とは、「私とあなたの関係」にどのような効果を与えるのか、それが問題なのである。

確かに、インターネットは双方向に、迅速に各々の意見を討議することが可能だろう。しかしながら、重要なのはその伝達・通信技術なのではない。まずもって重視すべきなのは、“強い私”を持つことなのではないだろうか。社会をこうしたい、こうあってほしい。未来を思い、現状を憂う力強い意志を持つことなのではないだろうか。決して、インターネットが日本政治を変えるのではなく、日本政治を変えるには力強い自己を確立することから始まるのではないだろうか。

“アラブの春”は名もなき青年が社会の不合理を訴えようと、焼身自殺を図ったことに端を発する。その行動が、インターネットで伝播され、心を揺さぶられた青年たちが蜂起した。今仮に、あの名もなき青年に問うことができたとして「インターネットで世界を変えることができるよ」と問いかけたらどうだろうか、と考えることがある。彼は焼身自殺をせずに済んだだろうか。“アラブの春”はそれでも起こっただろうか。

私たちは伝達・通信技術の発展した現代社会だからこそ彼らの思いに耳を傾け、学ぶべきなのではないだろうか。技術ではなく、意志こそ大切なのだということを。

江鳩 竜也(えばと たつや)
政治アナリスト