「原発ゼロ論」と「空想的平和主義」の類似点と相違点

松本 徹三

小泉首相が郵政改革を戦っていた時、私は彼のファンだったが、今回の都知事選での彼の言葉には、私は率直に言って首を傾げた。「原発ゼロを先ず目標として掲げることが大切。一旦揺るぎない目標が定まれば、具体的に何をどうするかは、誰かが知恵を出すだろう。」大体そういう意味の事を彼は言っていたと思うが、プロの政治家がそれでは困る。「具体的にどうするか」を考える事こそがプロの政治家の仕事であるべきで、「それは誰かが考えてくれる」と言うだけで済むのなら、誰でも政治家になれる。


「くだくだと『何が難しいか』を言い立てるのではなく、先ずは目標を決めて退路を断ち、その為のあらゆる方策を考える」という事は、実業の世界で成功を収める為にも極めて重要な事だ。しかし、実業の世界では「目標イコール決定」ではない。「退路を断ってあらゆる方策を考えたが、結局実現不可能だと分かった」ならば、優れた企業家は直ちに方向を転換する。しかし、政治の場合は「政策の決定」が先行し、「後は実行を待つのみ」になってしまうので、途中での方向転換は難しく、その分だけ危険が大きくなる。仮に、原発ゼロ政策で日本経済が大幅に悪化し、その時点で誰もこれを防ぐ方策を考え出せなかったとしたら、その時は最早手遅れなのだ。

例えは悪いが、かつての日本が対米英の戦争に突入した時には、政治家や官僚、それに職業軍人の多くは、最終的な勝利が覚束ない事をよく知っていた。これは緒戦の大勝利が続いた後でもそうだった。国民は浮かれ、名だたる文人や哲学者の多くも子供のように単純な想念にとらわれていたが、後に戦犯と呼ばれる事になる人たちも含め、大方の為政者たちは既に将来を懸念していた。「とにかく鬼畜米英に戦いを挑む事が大切。どうすれば勝利が得られるかは誰かが考えてくれる」等とは、勿論誰も考えていなかった。

因に、遡って「あの戦争は避けられたか?」と問われれば、勿論答えはイエスだ。しかし、その為の行動はずっと早い時点でなされていなければならなかった。ハル・ノートの内容に言及し、「米国にあのように挑発されては、開戦以外の選択肢は日本にはなかった」という人たちがよくいるが、米国側に言わせれば、「中国大陸での日本のやりたい放題をやめさせる為には、ハル・ノートのような形で最後通牒を出すしかなかった」という事になるだろう。「対米英の戦争を防ぐ為には日中間の紛争の拡大を防ぐしかなかった」という事が、現在の我々にはよく分かるが、その時点でそこまで見通せる人は少なかったという事だ。

更に、当時はもっと大きな問題もあった事を指摘しなければならない。国民の空気がイケイケムードで盛り上り、ジャーナリストが無節操にそれを煽っていた時に、少しでも慎重論を展開すれば、「臆病者」「非国民」と罵られ、下手をすれば「一人一殺」を公言する右翼団体に命を狙われる。「臆病者」と呼ばれたくなかった陸軍は、海軍に慎重論を主導させようと画策したが、海軍も逃げた。

ところで、現在はどうだろうか? 原発ゼロ論者も原発推進派も、Twitter等で口汚い罵声を受ける程度で、「非国民」とまでは言われない。反対派に命を狙われる事などは勿論ない。こんなに自由な時代に恵まれているのに、なお「数字をベースにした科学的な議論」が一向なされていないというのは、一体何故なのだろうか? 進むにしろ引くにしろ、今ならまだ色々な選択肢があるのに、徒に一方方向の不毛の議論を相互に繰り返すのみで、国民的なコンセンサス作りの努力を本気でやろうとするような機運が一向に生まれてこないのは、一体どうしてなのだろうか?

このように考えると、折角影響力のある小泉首相が、具体論に踏み込んでくれなかった事には、私はやはり大きな失望を感じざるを得ない。反原発論者の中には「宇都宮候補が降りて反原発派の票を一本化していれば勝機はあった」と言う人たちも多いが、具体論がない事では両候補者は同じだった。要するに、これは、個々の人の問題ではなく、「反原発論」というものの性格、つまり、具体論には極力言及せず、「理念」や「情緒」に訴えたいという「戦術的共通性」に起因する事だったように思える。

さて、宇都宮候補の思想的背景に言及するまでもなく、「反原発」と「平和主義」は似ている。誰でも、戦争の危険があるよりは、平和が続く方がよいに決まっている。同様に、原発がなくてもやっていけるのなら、原発等はない方がよいに決まっている。問題は「どちらが良いか」の問題ではなく、「本当にそれでやっていけるのか」の問題なのだが、そのような問いかけに対して明快に答が出せない点でも、この両者はよく似ていると言わざるを得ない。

反原発派が本当に市民権を得るには、昔懐かしいサヨクさながらに「ハンターイ」と叫び、「子供たちを守れ」等という情緒的な訴えに頼るのではなく、「ほら、こうすればちゃんとやっていけるではないですか」という具体案を出すしかないと思うのだが、反原発派の中にそういう考えを持っている人はあまり見当たらないように思える。

しかし、「一切の軍備を否定する人たち」に対しては、「他国をコントロール出来ない限り、『他国からの軍事的脅威は存在しない』事を前提にする平和主義は『空想的』と言わざるを得ない」という事が言えても、「一切の原発を否定する人たち」に対しては、「空想的」とまで酷評する根拠はないから、原発再稼働推進派の人たちも、議論の上では「手詰まり感」が否めない。経済の議論だけでは、小泉さんのような「確信すれば道は開ける」という主張には、なかなか対抗出来ないだろう。

中国の拡大主義(覇権主義)がかなり露骨に見え始めてきた現時点では、「空想的平和主義」は益々非現実的に見えてきているが、かつての「非武装中立論」は、現在とは比較にならない程現実的だった。しかし、それは、「中立は可能」という空想的なまでの「楽観主義」故ではなく、「西側の一員に留まって資本主義に毒されるよりは、共産主義体制の中に組み入れられた方が、国民大衆はむしろ幸せな筈」という考えが、当時の多くの人たちの考えの根底にあったからだと思う。

結局のところ、この「非武装中立論」が説得性を失ったのは、「東西ドイツや南北朝鮮の経済的格差」があまりに大きい事が、誰の目にも明らかになる一方で、「共産主義を支える独裁体制は、結局は権力の腐敗を生み、国民の生活を抑圧する事にしかならない」という事も明らかになったからである。しかし、これ程の「理想と現実の乖離」は、現状ではもうどこにもありそうにはなく、従って、「空想的平和主義」と相当かぶるところのある「反原発主義」ではあるが、今後早急にその説得性を失う事になるとは思えない。反原発論者は、むしろ現状から大きく脱皮し、「その根拠を数字で示せるようになる事」を最大の目標にして、引き続き頑張って欲しい。