わが国の防衛政策は、どうしても(1)「ドンパチの議論」、(2)「ヘンテコな理屈」、(3)「他国の例のそのままの引用」で議論されがちである。その代表例が戦車を巡る議論である。戦車なる兵器システムが必要かはさておき、こうした防衛政策をめぐる議論の不毛さが、戦前から続くわが国の防衛政策のゆがみをもたらしている。本稿では、そうした議論ではなく、現在の戦略環境から導き出された「日本流の戦争方法」にとって戦車という兵器システムが(そんなに)必要とされていないことを論じたい。
現在の戦略環境で予想される「日本流の戦争方法」、つまり、日本の軍事力が最低限求められる機能とは何か。それは極端な言い方をすれば(1)地域紛争の抑止力及びたい諸能力、(2)本土防衛において米軍を引きずり出す戦力、(3)国際協力における国家再建と治安維持に役立つ能力である。
戦力環境から求められる能力
(1)地域紛争における抑止と対処
抑止と対処は往々にして混同される議論である。例えば福島瑞穂氏は、「(在沖縄)海兵隊が抑止力や守備と関係があるのか。朝鮮有事の時の救援部隊で、米国人を救出するものだ。日本人の救出ではなく、日本の抑止力とは違う」といったが、これは典型的な抑止と対処の混同である。これは抑止ではなく対処の問題なのだ。
抑止とは、自分の望まない行動を実行に移した際には、相手が受け入れがたい制裁を与えるという「脅迫」として使用する力である。狭義の抑止は、敵の軍事力よりも、相手の国民や産業基盤を目標とする。それ故に核戦力が担い手の中心となる。一方、対処とは、敵の攻撃を排除し、攻撃された場合の損害を最小限にするための行動である。この場合は、敵の軍事力の打破が中心となる。
では、戦車はこの抑止と対処において役立つのだろうか。抑止において、日本国内に戦車があれば、相手はより強力な戦力を用意せねばならず・・・という論議がされるが、それは「間違ってはいないが、ピントのずれた議論」である。確かに抑止力の中心が戦車であり、他に存在しないのであれば、その議論は正しい。だが、狭義の抑止とは核戦力であり、抑止とはさまざまな要因で複合的に考えなければならない論議である。日本の抑止が米国の提供する核抑止と各種通常戦力(と自衛隊)が中心になって担保されている以上、戦車と抑止を結び付けて、戦車が無ければ抑止力が弱体化するがごときは論理の飛躍でしかない。
対処においてはどうか。これも疑問である。日本に影響する周辺での地域紛争は、半島有事、台湾有事、尖閣諸島・先島諸島・日中中間線での日中間での紛争、ゲリコマが予想されるが、戦車の出番はほとんどない。半島有事に関連して、北朝鮮の潜伏工作員やゲリコマが都市攻撃を行った場合、地方に存在する戦車が出動するころには逃げ去っているだろうし、都市部での運用には政治的な無理がある。実際、江陵浸透事件という北朝鮮の工作員26名が韓国内を逃げ回った事件では150万人が投入され、主力となったのはオートバイ部隊だった。また、尖閣諸島や先島諸島では戦車の運用は難しく、また基本的には海上戦力や航空戦力の投入が主流になる。沖縄なら運用の余地はあるから必要かもしれないが、北海道にあんなにおいておく理由にはならない。日中中間線での紛争では出番は無い。
このように抑止と対処の意味ではあまり戦車の出番は無い。
(2)本土防衛―状況を作り出す力―
わが国が周辺諸国との武力紛争に陥った場合、第一に必要なのは米軍の軍事プレゼンスを何としてもわが国の国際紛争に引きずり込むことである。では、米軍が介入しなければならない事態とは何か。それは、東アジア地域での紛争がエスカレートし、米国の経済に影響を与えかねない事態に他ならない。であるならば、この場合に必要とされる戦力は、限定的でもいいので何らかの戦力投射能力となる。つまり、巡航ミサイル、揚陸戦力、攻撃機、弾道弾などの「戦力」を相手に投げつけることで、戦争をエスカレーションさせられる軍事力が必要となる。勿論、敵地攻撃能力というものはほとんど純粋な機能としては意味を持たない。しかし、「米国が介入しないのならば、中国本土なりに独力で対処する」と政治的なハッタリが出来る能力としては敵地攻撃能力をはじめとする戦力投射能力に意味はある。しかし、戦車にはこうした能力はない。
(2)国際協力―国家再建と治安維持―
近年、アフガニスタンでの活動に必要だからカナダが戦車全廃を覆した事例によって、戦車不要論がなくなったと指摘する向きもあるが、これも論理の飛躍だろう。そもそも、議論のポイントとして、A.戦車が国家再建活動において有効なのか、B.わが国の手法に適しているのか、を議論していないからだ。
Aについては、私自身は否定的である。コソボでの平和維持活動において、米軍は戦車を持ち込んだが復興すべきインフラ(道路・橋)を破壊してしまうことから投入を躊躇した。要するに発展途上国での戦車の運用は、復興の基盤を破壊し、引いては民心獲得に影響することで治安維持を困難にしかねないのである。また、度重なる被害にもかかわらずドイツがアフガニスタンに戦車を投入していないことも着目に値する。グーテンベル独グ国防大臣によれば、ドイツは戦車を投入しない理由は、1.戦車は「占領軍」のイメージが強すぎる、2.現地の橋が戦車の重量に耐え切れないため、としている。
B.については適していないと言える。確かに英国の事例のように、1.戦車による威嚇効果(実際に武装勢力の活動は低調になったという)、2.装甲の効果のように戦車は国家再建活動の戦術面で役立つ部分があるのは肯定できる。しかし、それをわが国の「戦争方法」に合致するかは別だろう。そして、おそらく合致しないだろう。わが国の国際平和協力活動の中心が、直接的な対氾濫作戦よりもPRTのような復興活動やその警備であることを考えれば戦車の活用はないだろうし、戦車の投入は現地の民心獲得に支障をきたす。加えて、各国の事例が示すように戦車の投入は兵站に大きな負担を掛ける。また、何より、日本の戦車が、アフガニスタンやスーダンの武装勢力を蹂躙する映像は政権にダメージを与えるだろう。こうしたことを考えればわが国の国際協力においても戦車の必要性は低いといえよう。
要するに、戦車がゲリコマに役立つという論はわからなくもないが、戦術的効率性を強調するあまり、戦車を投入することによる戦略的、政治的影響を無視しているのである。
結論
このように戦車という兵器システムは、わが国の戦略環境や政策から考えれば優先順位が低いと評価せざるを得ない。もっと言うならば、「日本流の戦争方法」に戦車はあまり合致していない。こう言うと魔法の言葉として、前回の自給率の問題でも出てくるのが「あらゆる脅威にそなえなければならない」「最悪の事態を考えるべき」「将来に備えて」である。
しかし、「ここは米国ですか?」と言いたい。現在の財政状況を考えれば、「あらゆる脅威にそなえなければならない」というのは理想論でしかない。「最悪の事態を考えるべき」というのも、予算と人員が無限にあればごもっともである。必要なのは優先順位を決めて予算を配分していくことである。戦車の有用性があることは認める。しかし、だからといって戦略環境における優先順位は低いということも事実である。「将来に備えて」も、削減された元戦車兵の方がよくおっしゃる論理だが、国家間紛争の様相さえ変化しつつある現在において、戦車戦がどこで生起するのだろうか。可能性は可能性だが、蓋然性と可能性は違う。確かに戦車全廃論を唱えるつもりは無いが、600台も残す必要は無い(機動戦闘車も含まれているので、実数はそんなに残らないだろうが)。「技能を残したいのなら歌舞伎や伝統芸能のように12台ぐらいでいいじゃないですか」とは言わないが、200台程度(三個大隊)もあれば十分なのではないだろうか。新型戦車の開発も正直疑問である。
それよりも、その削った予算と人員で、A.他の陸自の職種の人員を増やす、B.予備部品でも購入する、C.歩兵銃を統一する。D.機動性を増すために装輪装甲車やヘリを購入する、のが筋だろう。問題は戦略環境や政策から見た優先順位なのだ。
しかし、戦車をめぐる議論は、(1)「ドンパチの議論」、(2)「ヘンテコな理屈」、(3)「他国の例のそのままの引用」のままである。(例えば、10式戦車にRWSがあるかないかなど)これは安全保障論議全般にも言える問題である。それらの議論も大事なのだが、もっと違う議論がわが国の議論には求められている。自給率と安全保障の問題のように。
付記
ごぶさたしております。先日の自給率の議論ではたくさんのコメントや議論有難うございました。特に、ネット界の江畑謙介先生と尊敬している、JSFさん(週刊オブイェクト管理人)から丁寧かつ正確なご批判をいただいたのは大変名誉なことでした。いずれにしても、シーレーン防衛の議論の硬直性についても今後触れたいと思いますし、前回のご批判に対して応じるものを書きたいと思っております。今後ともご批判、賛成、議論、感想など各種賜れれば幸いです。Twitterは、http://twitter.com/tanya_kouichi です。
コメント
まず、核戦力が抑止力として必ずしも意味を持ち得ないというのは、中越国境紛争などを見れば明らかだと思われます。つまり、抑止力を議論する際にどれか一つ(例えば核)に重きを置いて議論する意味がない以上、逆にどれかを軽く扱ってもいけないのではないでしょうか。
また、市街地における戦闘や対ゲリラ戦において戦車が活躍した事例は、第二次世界大戦からこの方沢山あるのですが、それでもあえて「戦車を投入する場面は少ない」と言い切るには、この文章では根拠が薄弱なように思えます。例に挙げられた江陵浸透事件も、韓国国内でのゲリラ戦を当初から目的としたものではない以上、根拠としては弱いのではないでしょうか。
国際協力の項目に至っては、日本は最初から他国の紛争に武力介入する場合や、治安維持に介入すること自体を想定していないので、ありえない仮定を持ち出して難詰する典型的な詭弁に思えるのですが、私の早合点でしょうか。
ご無沙汰しています。
いわゆる「陸の大艦巨砲主義」についてのことですよね。
とても常識的でオーソドックスな意見だと思います。
MBTの地位低下は世界的な現象だし、戦車戦について第二次世界大戦での例を持ち出しても仕方のないことです。
LIC対応というのはレーガン軍拡の頃から言われていることで、米軍のストライカーのような歩兵戦闘車のほうに軸足を移しつつあるのが趨勢と思います。
本文では陸上打撃力の重視への疑問のようにも取れましたが、站谷氏の本意はどのあたりか補足されるとありがたいです。
かなり丁寧に議論を展開されていますが、それでもやはり、文章からはいわゆる「戦車不要論」にかなり近く見えてしまうのがとても残念です。
議論の方向性には賛成ですが、「戦車不要論」に対する私を含めた世間の不信は根深く、もっと不要論に対する明確な批判があればより説得的になるのに、と思いました。
今の日本の軍事力が最低限求められる機能からの国防方針の提案だと思いますが、
「(1)地域紛争の抑止力においての役割」においてイクイップメントとしての戦車は不要だという議論は、元米陸軍シンセキ将軍が低強度紛争と遠隔地への投射能力を考慮した装輪車主体のストライカー旅団構想に見られるように、あくまでも大国同士の戦争以外では兵站のしやすさと戦車の持つ威圧感等、政治的な問題もあって非戦車の潮流となっているようですね。
「(2)本土防衛において米軍を引きずり出す戦力」については(1)で触れた大国同士の本格的な戦争の延長線での思考で陸自は再軍備化以降より北海道に重武装の機甲師団を配備していましたが、イスラエルのモシェダヤン将軍が冷戦まっただなかですらこの布陣に疑問を呈していたと聞いています。おそらくソ連極東軍の揚陸能力と日米の制海能力の分析に起因するものだと考えています。
(3)については割愛させていただきます。