8月14日に東京都内で開かれた「愛国者の集い」を主催した右翼団体一水会の鈴木邦男顧問は、「自国を愛することが他国の排斥につながってはならない。そのためにも愛国者が直接交流することが大切だ」と述べ、この集まりに出席した欧州8カ国の右派政党幹部達を案内して靖国に参拝したと言う。
英国紙の日本特派員がこの参拝事件を「日本のナショナリストと連合国側の愛国者が、手を携えて靖国を参拝する。普通の感覚では理解できない」と驚くのも尤もであるが、フランスの右翼政党「国民戦線」のルペン党首が「立場に関係なく、国のために戦った人に尊敬を持って参拝するのは当然」と内外の報道陣に語ったと聞き、わが耳を疑った。
事あるごとに、中韓両国を排斥してきた日本の右翼や、移民反対論というより有色人種と回教徒への差別発言で物議を醸してきたルペン党首が、この様な穏健で冷静な考えを本気で信じているとすれば諸手を上げて歓迎したい。
それに比べ、靖国不参拝を巡る新聞論調は、外交や政局と絡ませた主観的な批判記事が多く見られ、産経新聞に至っては :
「靖国神社にまつられている幕末以降の戦死者の大半が先の大戦の死者だけに8月15日の参拝の意義は大きい。特に、首相が国のために亡くなった国民の霊に哀悼の意を捧(ささ)げることは、国を守るという観点からも、重要な国家の責務なのである。 今回、菅内閣の閣僚が参拝しないことも、中国や韓国のメディアは好意的に報じている。近隣諸国にのみ配慮し、戦没者の霊に背を向ける首相は、日本のリーダーとしての資質が疑われよう。」
と参拝問題を利用して内閣批判をするばかりか、管首相の個人攻撃までするなど突出した感情論を展開した。
内閣の不参拝方針が、外交上の配慮や政局に絡んだ思惑だけでで決められたとしたら甚だ遺憾であるが、多くの基本的問題を抱える靖国参拝問題をこんな単純な事で決めたとは信じたくない。
一方、記者の憶測だけで結論を出したり、個人の主観を新聞と言う公的媒体を使って発表する報道が多く見られる事も国民を混乱させている。靖国不参拝を巡って管首相の資質に疑問を呈した産経の記事を読むと、「資質」を問われるのは寧ろ報道側ではないかとさえ思えた。
因みに、新聞協会が発表した「新聞倫理綱領」には、「新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。 正確と公正な新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。 新聞は、自らと異なる意見であっても、すすんで紙面を提供する。」と国民に約束しているが、政党のマニフェスト以上に実行されていない綱領の典型であろう。
この論争で思い出すのが、広島・長崎の原爆資料館と靖国の与えるインパクトの違いである。広島・長崎の原爆資料館は国籍、信条を超えて「戦争の残酷さ」と「平和の貴重さ」を強く訴える「力」を感じるが、「靖国」「遊就館」を訪れて鎮魂の気持ちになる人が何人いるだろうか?
新憲法発足と共に始まった日本の新秩序は、「朝廷」への忠誠を政治的に利用した戊辰戦争の勝利者が、新政府軍側のみ祀り、旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者を排除する等、日本を分割させて始まった靖国建立の起源も問題を複雑にした。
憲法で定めた政教分離の解釈、A 級戦犯合祀の是非、天皇と靖国、戦争責任とアジア諸国等々、靖国を巡る課題は大きく、国民全体を巻き込んだ大議論を展開する価値のある重大問題である。
永年に亘り終戦(敗戦)記念日を戦争相手国で迎えてきた私は、反日感情が強いと聞く韓国に在住する日本人の気持ちはさぞやと言う感慨を禁じられない。
国家法人説に基ずく「天皇機関説」に説得力を感じ、政教分離を厳格に解釈し、靖国の祀り方に疑問を持ち、A級戦犯の合祀に反対する私は、公職にある者が靖国に参拝する事には賛成出来ない。
だからと言って国民が揃って「無名戦士」に敬意を表する環境も場所もない日本の現状や、靖国参拝を愛国の踏み絵としたりアジア外交のリトマス試験紙に利用する風潮にも我慢がならない。
戦後65年を経た今日でも解決しない実情を齎した一因は、「靖国」を巡って怒鳴りあいはあっても、真摯な論議が行われてこなかった事にあるのではなかろうか?
無名戦士や戦没者への鎮魂と敬意を表せる場所として、広島、長崎の記念碑の様に国民が挙って賛同する施設が出来るのは、いつのことであろうか?この様な場所が無いままに、65回も終戦記念を迎える日本にはそろそろ終止符を打つ時期である。
百家争鳴を通じて、国民がこぞってその霊を慰める場所と環境を整備する事こそ、我々に与えられた戦没者や無名戦士へ義務ではないだろうか?
コメント
私は右か左かで言えばかなり右寄りの人間だと思いますが、靖国参拝に関しては賛同出来ません。
靖国神社は国の施設ではなく一宗教法人に過ぎません。言わば、単なるファンサイトのようなものであり、オフィシャルサイトではありません。誰を祭るかに関しても「なお合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみで行われている。このため、遺族が不満を抱き裁判に至っているものもある[11]。(Wikipedia)」というように神社側の判断のみで行われるものであり、国民やその代表である国会議員などが介入することは出来ません。A級戦犯の合祀に関しては昭和天皇の意向にすら反しています。このような施設を国を代表する追悼施設として扱うのは無理があると思います。
靖国神社の他に、国民の意向を反映出来る国立の追悼施設を設けるべきだと思います。
私も北村さんの論旨に全面的に賛成です。
いつまでも同じ議論を繰り返し、「誰もが戦争の犠牲者に対して鎮魂の祈りをささげられる場所」もないままに、内閣が変わるたびに、靖国参拝問題が「愛国の踏み絵にされたり、アジア外交のリトマス試験紙にされたり」していることは、国民の一人として情けない思いがします。
1、英国紙が「日本のナショナリストと連合国側の愛国者が、手を携えて靖国を参拝する。普通の感覚では理解できない」と発言されているようですが、いや実は合理的なんです。表向きの反対の理由が正しければ、彼らが、移民や異民族に反対の理由は、単に自国の社会秩序を乱す勢力を嫌っているにすぎませんから、自国から遠い日本や過去の話は、別に反対な訳ではないんです。
2、bobbob1978さんへ。合祀の決定は厚生省です(戦前は、陸軍省、海軍省)。昭和天皇が反対されたという「富田メモ」は、極めて疑わしい歴史資料で、少なくとも判断材料にならないでしょう。靖国神社は、表向きは、民間とされていますが、事実上は、国家の施設として機能してきました。何しろ「国家」の命令で死んだ人々を祭り、「国家」の指導者が参拝をした歴史がある訳ですから。
3、靖国神社を悪いと言われる理由が理解できません。東京「裁判」が違法性が高い事は、当のGHQの軍人でさえ認めています。実際には、戦争指導者を殺すための儀式以上の価値しかありません。(敗戦になった責任は、本人たちも反省しています)。
4、一番不愉快なのは、「反国家・反体制イデオロギー」から抜けきれない団塊老人の嘲笑でしかない屁理屈で議論される事です。つまり、政府首脳の「ゲバ棒世代」と北村隆司様には、議論してほしくありません。
産経新聞の解釈に関しては北村さんの目も随分曇ったといわざるをえません。普通に読めばいいものを。
>参拝問題を利用して内閣批判をするばかりか、管首相の個人攻撃までするなど突出した感情論を展開した。
参拝問題を利用したのではなく、産経の記者は日本の総理大臣は靖国神社に参拝して国のために亡くなった国民の霊に哀悼の意を捧げるべきだと普段から思っているのですよ。
そして首相を個人攻撃しているのではなく、普段の立場から、参拝できない総理大臣を批判しているんです。
朝日新聞がならともかく、産経新聞の普段の論調から考えてもこういった主張になるのは不思議でもなんでもない。
鳩山首相が金の問題を起こして、それを批判したら、金の問題を利用して鳩山首相の個人攻撃をしたことになるんですか?
北村さんは靖国に参拝する首相が私人として参拝しているか、公人としてか、気にするほうですか?
もしそうであるならば、ご自身が産経新聞と立場が違うとはいえ、総理大臣としての批判を個人攻撃としか取れない北村さんは私人か公人かの区別などできない人ですね。
>「靖国」「遊就館」を訪れて鎮魂の気持ちになる人が何人いるだろうか?
参拝者、入館者の数を教えてもらって時間や曜日、時期、質問内容に配慮しながら
各施設とも1000人ずつくらいサンプルでインタビュー(アンケート)したら信頼度の高いデータが取れると思いますよ。
知り合いに統計に強い社会学者とかいらっしゃらないのですか?
>政教分離を厳格に解釈し、
アメリカ大統領が聖書に手を当てて宣誓する事をどう解釈していますか?
これこそアメリカ在住の方の意見を聞きたい。
>A級戦犯の合祀に反対
A級戦犯は戦勝国の分類ですよ。日本人の慰霊を日本の基準で語れないような人に反対されたくない。
出来もしないことを、意を決すればなし得るがごとき論調に違和感を感じる。
≫天皇機関説に説得力を感じ・・・・公職にあるものが靖国に参拝することに賛同できない≪
この姿勢が、無名戦士の墓を作らせなかった一因なのである。65年経ったからといって、それらの感情を根源とした論理が妥協を作り出すとは思えない。
恐らくは、ホルムズ海峡で実質日本のタンカーが沈められ、断油となってから、軍備に関する論も変わるのだろう。己が血と汗で集団を守る意思も無く、傭兵で済まそうと言う魂胆の集団が、自国の為に生命を賭して闘ったことを理解できるはずも無い。
ましてや、銃を取る意思もない老人がとやかく言う問題ではないのかも知れない。先の大戦で戦死した人を精々貶めることが関の山だったような気がする。
なんか右翼・左翼の認識からしてズレてませんかね。
一水会をはじめ、所謂右翼団体の幹部・構成員は日本国籍を持たない者で多くを占められてます。右翼とは言葉ばかりで実際のところ日本を貶める思想団体に過ぎません。彼らの茶番劇を言及してもあまり意味がないので、日本の右翼を引き合いに出すなら在特会のほうが適切でしょう。
”政教分離を厳格に解釈し、”
この文がうまく解釈できません、国が宗教的儀式に全く関与してはならないという事ですか?
過去に公明党に関するエントリーが無いため北村さんの考える政教分離とは何かが聞きたいですね。
私は靖国の事を大してよく知りませんが、テレビやネットでの議論を聞く限り、鏡のような存在であると思います。
ただひとつ戦死者を悼みたい人は大きな声で否定も肯定もしないですし、思想の偏った人間は強く肯定あるいは否定する傾向が伺えます。
大変妥当かつ傾聴すべき意見であり、概ね賛同します。
しかしながら、靖国神社に参拝する遺族の個人的な参拝について
尊重すべきとの言及はあるべきかと思います。
(論調からして、北村氏もそれは尊重されるべきとお考えかと)
また、広島長崎の原爆資料館、鎮魂の気持ちになるかどうかという
こと(顕彰施設という性格が、鎮魂のみを目的とはしていない点は
理解しますが)については、比較すべきことではないと思います。
戦後65年を経ても、真摯な議論が出来なかった背景には、遺族の
感情という要素も大きかったのではないかと思います。
戦中の靖国の扱いを考えれば、戦後のある程度の期間において、
それは致し方なかったものと思います。
そうした靖国を特別視する個人は尊重されるべきとしても、
国家として慰霊がどうあるべきか、そも政治的な経緯をもつ宗教法人
である靖国の何が問題であるのかなど、先の戦争と国家について、
今こそ真摯な議論が必要であり、又それができる世の中になった
のではないでしょうか。
戊辰戦争から祀られている方はともかく、国の為に戦って戦死した方は靖国神社に祀られるという事がお約束となっていた時代に戦死された方が非常に多く祀られているのが靖国神社です。
そういった人々にお詣りする気がない人はお詣りしなくても構わないと思いますが、戦前も戦後も日本国家は連綿と続いているんだと考える人々(私も含みます)にとって、政府の代表である内閣総理大臣が靖国参拝しないのは、違和感を覚えます。国の為に命を投げ出した英霊に対する礼を失しているように感じるのです。
izumihigashiさんが御自分の心情を背景に個人的に参拝
されるのはかまわないのですが、公人が参拝するとなった
場合に、それと同様の扱いをするわけにはいきません。
それは靖国神社そのものが政治的な思想をもっており、
それを背景に歴史認識をもっているからです。
公人がどういう個人的意図をもって参拝したとしても、
それは靖国神社の政治的思想から、国内外に政治的な
メッセージを発することになります。
そして、それは現在の日本政府のそれとは違うのです。
そこで、自分は純粋な気持ちなのだと言ったところで、
自分の行為が社会に大きな影響を与える公人としての
自覚に欠けているか、政治利用していることを隠している
のでしょう。
また、礼を失していると言われますが、その個人的な
心情は察するとしても、私は人の死を政治的に利用し
国内外に大変な不幸をもたらした太平洋戦争を支える
社会構造のひとつであった靖国神社に内閣総理大臣が
参拝することは多いに違和感を感じます。
あのような施設はもう二度と国につくらせてはならないと
考えています。
これも個人的な心情であるわけです。さまざまな心情が
あることについて、もうすこし配慮すべきではないでしょうか?
国民の一人一人がどう考えようと自由だと思います。
しかし、総理大臣は国家の長(おさ)と言った性格を持っています。国家とは文字通り「家(いえ)」です。
国家といういえの家長たる総理大臣は、
いわば家の儀式として靖国参拝するのが務めだと思うのですが間違ってますでしょうか?
普段は家の仏壇に向かって手を合わせなくても、お盆には手を合わせると言った、その程度の行事であっても、やらないよりはやったほうがいい、その程度の事柄だと思います。
本来、政治問題化する方が不自然なんだと思いますね。このような儀式、行事に、思想心情の入り込む余地は無いと思いますが、靖国参拝反対といった気分の方こそ、特定の思想心情に影響されているように思うのですが、
感覚、ズレてますかね?
具体的に言って、国家は家ではありません。
そうしたイメージを個人的にもつことはかまいませんが、それを
普遍的なものと考えることには無理があります。
家というイメージもいろいろとあるわけですが、izumihigashi さんは
家長という言葉を使われているように家父長制度的な捉え方を
されているのでしょう。しかし、国家は家父長制度を採用している
わけではありません。内閣総理大臣は選挙を通じて選ばれた
議員によって選ばれるわけですが、家長がそうして選ばれるという
のは家父長制度ではありえないでしょう。
国民が天皇の臣民であったころには、天皇を家長としてイメージさ
せるということをしていたわけですし、izumihigashiさんがそうした
イメージをもたれることが取り立てておかしいということもないので
すが、それで国家が家になるわけでもないのです。
また、靖国神社そのものに特定の政治的思想があることについて
指摘しましたが、それを無視してはいませんか?
反対する側よりも先に、それがあるのに、反対する側が問題を作り
だしているというのは本末転倒なのです。
wishborn2400さん
>靖国神社そのものに特定の政治的思想がある
僕も考えてみたいので、この辺について詳しく教えてもらえませんか?
asoaさん、靖国神社ではない私が、その政治思想の中身について
述べることは、こちらの本論から外れるものだと思いますし、あまり
に紙幅が足りないものと思いますので控えますが、(実際800字で
は足りなくなってしまいました。申し訳ありません。)
「靖国神社が特定の政治思想を持っていること」と、それに
より導きだされる「歴史的事実への評価が政府のそれとは違う」
ことについてもう少し説明しようと思います。
それは大東亜戦争を自存自衛の戦争であったとする
靖国神社の評価、歴史観にみることが出来ます。
それは政治的な配慮から遊就館での表示が変わったり、HPでは
ひかえめな表現をしていますが、戦争を主導した立場の人々を含め
て祀られている死者を「国を守るため」に死したものと評価してい
るところに具体的に見ることが出来ます。
ある戦争があって、それは自存自衛のための戦争である、よって
その戦争において戦士した死者は「国を守るため」の死者である。
侵略のための戦争で戦士した死者を「国を守るため」の死者と
呼ぶのは無理がありますから、筋は通っています。
ある戦争がどのような政治的意味をもつものであるかについて
評価するためには、その評価主体が特定の政治的思想を持って
いなければなりません。政治的に無垢な存在が、ある事物に関し
政治的な評価なり意味付けを行うことは出来ないのです。
つまり、靖国神社は単なる慰霊施設ではありえない。
ここに靖国神社を代弁できる人はいないわけですから、宗教法人
としての政治思想がどうだというのは、不当な欠席裁判ではない
かとの批判はあるでしょう。その批判はある程度妥当であると思い
ます。
しかし、靖国神社はある特定の政治思想を持ち、その政治思想
から導きだされた大東亜戦争への評価は、先に提示したように自存
自衛の戦争なのです。そして、それは現在の日本政府の公式評価
とは違う。これは明らかなのです。
無論、戦没者を侵略戦争に参加した兵士としてではなく、国を守る
ために、あるいはアジア開放のために死んだ「英霊」として祀りたい
という遺族の心情は理解できるものです。ですから、個人が参拝する
ことを批判しようとは思いませんし、例えば靖国の歴史認識を政府の
それに変えることで、公的な慰霊施設にすべきとも思いません。
wishborn2400さん
アジア開放だったのか侵略戦争だったかと問われて、どちらかだと強く断言できる日本人は、遺族の方を含めてあまりいないと思います。
白人支配からの自由を与え、それと同時に侵略者でもあったと言えるので、2つの顔があったとしかいえないですよ。
でも例え、負の面をあったとしても自国の歴史を否定的に捉えなくてはいけないと言うわけでも無いと思いますね。
国の為に死んでいった先人を祀る権利はいかなる国でも守られるべきであるし、それは世界共通認識でもあります。中韓は別として、
政治的に無垢な存在なんて此の世にはないですよ、あくまで”自分達”の正義であって、他人と相容れないとしても妥協してはならないと思っているだけです。どこの国の人間だってそうですよ。
わたしは靖国には参拝していない。 しかしながら、太平洋戦争等で殉じた英霊には最大の敬意をはらうものである。なぜ靖国には参拝していないかと言うと、わたしの近い親族に戦死者をださなかったからだ。
靖国参拝とはそう言うものでないか。
srx600_2さん、どちらかだと強く断言させようとすれば、よほどの
知識をもっている人以外は断言を避けるのが普通でしょう。
それをもって、両者が同程度のものであるとはいえません。
あまりそういった「もし」話はしたくないのですが、その質問が
侵略戦争であったかアジアの開放であったかという問いであれば、
多くの人が侵略戦争であったと答えるのではないでしょうか?
そうしたコンセンサスがなければ政府の公式見解に対して
大規模なデモが生じているなどしなければ不自然ですし、
アジアの開放であると考えるならば、相当な理屈がなければ
朝鮮半島に対する政策を説明できないでしょう。とりあえず、
朝鮮半島をアジアから区別する理屈がなければならない。
これはかなり厳しい理屈を要します。
いずれにせよ、個人レベルでの見方はいろいろあってよいでしょう。
言われるように両面性があるとしても、これまでに私も指摘して
いることですが、靖国神社はあきらかに侵略であるという認識は
とっていませんから、その点において問題があるということは
むしろ同意していただけるのではないかと思います。
同時に日本は公式見解として明確に侵略戦争であるとの認識
を示していますので、両面性云々という捉え方はしていません。
ですから、国家として両面性を前提とした慰霊をすべきではない
でしょう。
戦没者の慰霊については千鳥ヶ淵がありますので、靖国でない
からといって慰霊がなされていないわけではありません。
現実に慰霊はなされ、慰霊をする権利は守られています。
その正義がなくてはならないと考えられるのは行き過ぎではない
かと思います。
しかし、正義というのは、あらためて政治的な言葉ですね。
wishborn2400氏
それならばむしろ参拝可能ではないでしょうか?
つまり靖国、日本政府ともに戦争に対する認識のズレはズレとして
戦没者を慰霊するという点で一致できるのではないでしょうか?
所謂靖国参拝問題とは、戦後暫くして所謂A級戦犯合祀が行われたあと、数回の総理参拝を経てからむくむくと頭を持ち上げた、国内発の、仕組まれた政治問題だと思ってます。
asoaさんの言われる、「むしろ」ということがどういうことなのか
ちょっと判りません。
私の説明がよくなかったのかもしれませんので、もっと平易な言葉
で言うならば、
靖国神社は、大東亜戦争を「国を守るため」の戦争であったとし、
それゆえ、「国を守るため」に戦った兵や民間の協力者の死者を
「英霊」として祀っています。
つまり基本的に、国を守るという「良いことをしたから祀っている」と
いう立場になるわけです。
しかし、日本政府は大東亜戦争について侵略戦争であるとして
おり、日本政府が慰霊する戦没者の性格は、先ほどの靖国神社の
「国を守るため」の死者という認識に対比させるなら「国のため」の
死者といったところになるでしょうか。
(厳密に考えれば、この表現はあんまり適切ではないと感じるの
ですが、わかりやすさ重視ということで)
行ったことの良し悪しは別にして「国のため」に死んだ者を慰霊
するということは、国としてすべきことで先に触れた千鳥ヶ淵の
全国戦没者追悼式において、軍人軍属と共に空襲や原爆で
亡くなった一般市民が対象になっていることにも具体的に
みることができます。
この差はそんなに小さなものではないでしょう。
>asoaさんの言われる、「むしろ」ということがどういうことなのかちょっと判りません。
14.のコメントにある
>靖国神社はある特定の政治思想を持ち、その政治思想から導きだされた大東亜戦争への評価は、先に提示したように自存自衛の戦争なのです。そして、それは現在の日本政府の公式評価
とは違う。
評価が違うだけならば「むしろ」という意味です。
asoaさんの「むしろ」の用法には違和感を感じるのですが、
それはとりあえず置くとして、asoaさんがそれを重視するか
しないかという話ではありませんので、評価が違うだけで
問題はないのだということは出来ません。
これまでに述べたように、靖国神社は国とは違った政治的
思想をもった存在です。そこに公人、特に内閣総理大臣の
ように国全体を代表する存在が参拝するとなった場合に、
その公人の政治的意図、国内外へのメッセージに影響を
与えてしまう。または、それを政治的に利用されてしまうの
です。
これは政教分離の問題、特に靖国神社が戦争遂行に
果たした機能を考えた場合、軽視できるものではないのです。
政府の行為により、再び戦争の惨禍が起こることのないように
するという国の総理大臣が、その戦争の遂行に寄与した
靖国神社に公式参拝するというのは、おかしなことです。
このような意見が言えるようになってきたのは、戦後65年が
経過したからということがあるでしょう。
遺族感情に配慮しつつ、この国のあり方や、大東亜戦争への
評価、慰霊のあるべき姿などを、ようやく落ち着いて考えられ
るようになったのだと思います。
コメントしたつもりがちゃんと書き込めてなかったようで、失礼しました。
>asoaさんの「むしろ」の用法には違和感を感じるのですが、
教科書的な用法は知りませんが混乱させるようでしたら「むしろ」を除いて読んでいただいて結構です。
>これまでに述べたように、靖国神社は国とは違った政治的思想をもった存在です。
政治的思想を異なることでやることも異なるなら共にはできないのは当然ですが、政治的思想が異なるだけなら共に手を合わせる事はできるはずです。
>国の総理大臣が、その戦争の遂行に寄与した靖国神社に公式参拝するというのは
公式参拝というのはどういう事でしょうか?公式でなければよいのでしょうか?
>その公人の政治的意図、国内外へのメッセージに影響を与えてしまう。
靖国に参拝するかどうかは国内の問題です。反発する国があってそれに対応するとしても基本は内政干渉です。
wishborn2400さんとしては議論が終わってしまったようで残念ですが、もう少し指摘したいです。
>評価が違うだけで問題はないのだということは出来ません。
問題はないとはいいませんが、評価が違うだけで行動できないのは不寛容だと言っているのです。
たとえばアメリカは広島の原爆式典に今年初めて出席しましたが、出席したアメリカ大使は広島で我々が謝罪すべきことは何もないと発言しました。
さてアメリカは評価の違いと式典への参加のどちらを重視すべきだったのでしょうか?
管直人首相はG8で中国を参加させようと発言しましたが、価値観が違うと言われました。
ではG8の各国は政治体制の違う中国とは交流の場を持つべきでないのでしょうか?
北村氏
>政教分離を厳格に解釈し
厳格に解釈しても首相の靖国参拝が憲法違反というのは導けません。
憲法には「首相はいかなる宗教施設にも行ってはならない」とは書いていないからです。
政教分離の問題があるとよく言われますが、
高裁レベルでは私的参拝が公的参拝かでも意見が分かれ、
最高裁では違憲判決をする必要がないという判断がなされました。
したがって法的に違憲が確定する可能性は「ほとんど0」なのです。
政教分離の問題を持ち出そうとする人は正確にこういうべきです。
「最高裁で違憲判決を引き出すことは困難だが可能性は0ではない」と。
コメントを入れてはいるのですが、私がミスをしてるのか、承認が
えられてないのか反映されてないんですよ。
評価が違うだけで、問題はないということでないならば論点は
あきらかです。国と靖国神社の評価が明確に違う以上、国として
または国を代表する人物が靖国神社に参拝するのは、その国と
しての評価に疑問を抱かせることになるのです。
これを寛容云々の問題とするのであれば、国は大東亜戦争に
ついて評価すべきではないでしょう。
米国云々は、まず彼らが考えるべきことです。
実際、批判もありましたしね。わが国にとってどうかということを
言われるのであれば、同様に中国や韓国のことを考慮すべきと
いうことになるかと思います。
G8云々は政治的思惑もあるでしょうからなんとも。
寛容云々というのは、うやむやにしておこうという以上のものでは
ありません。内政干渉という言葉で機械的に処理しようということ
も、日本が行ったことの重大性を考慮しないものではないでしょうか?
>評価が違うだけで、問題はないということでないならば
評価は同じならそれに越したことはないと言っているだけで、
私は首相の靖国参拝に問題、特に法的問題はないと言っています。
>寛容云々の問題とするのであれば、国は大東亜戦争に
ついて評価すべきではないでしょう。
「…であれば」、から「国は…」までのつながりがよくわかりません。もうすこし教えていただけないでしょうか。
「評価すべきではない」というのは、良い評価も悪い評価も、評価そのものを下すべきでないということでしょうか?
>米国云々は、まず彼らが考えるべきことです。
靖国参拝もまず日本人が考えることです。
では日本はアメリカが広島の原爆式典参拝について
謝罪なしの出席を拒否すべきだったのでしょうか?受け入れてよかったのでしょうか?
>寛容云々というのは、うやむやにしておこうという以上のものではありません。
うやむやにする必要はない。議論すればいいんですよ。
評価が違ったとしても参拝をしない決定的な理由にはならないと言っているんです。
>内政干渉という言葉で機械的に処理しようということも…
誤解です。先のコメントにも「それに対応するとしても」と、対話の必要性を入れました。
asoaさん、評価が違うのは事実です。同じならという仮定を考える
ことにはあまり意味はないかと思います。
また、同じにするということの問題については、すでに私が触れた
とおりです。
法的問題ではないが、何某か問題はある。しかし、寛容であって
よいのではないかということだと思いますが、問題が明確である
のに、寛容という言葉で参拝を可能にしようというのは、やはり
うやむやにしておこうという以上のモノではないでしょう。
ある種の政治的な妥協策として、そうした寛容に基づくダブル
スタンダードな姿勢を取る必要がある場合が存在することは理解
しますが、靖国参拝にそうした必要性はないでしょう。
国家が自身の歴史的事実への評価に関して、寛容であろうと
いうことなら、そもそも評価などする必要などありません。
評価をしておきながら、それを否定するようなことをするのであれ
ば、そもそも評価をしなくてもよいのです。
米国の態度を問題にするのはよくわかりませんね。
それはまず、彼らが考えるべきことです。
靖国神社は、今我々が考えているわけですが、米国がどうだから
という議論をしたいのでしょうか?
米国に対して日本が寛容だから、日本も中国や韓国にそれを
求められるということもありませんよ。
また、靖国神社と原爆慰霊際とを同列に扱うのは無理があります。
これまでの繰り返しになってしまうのですが、靖国神社は
単なる慰霊施設ではなく、大東亜戦争を「良いこと」であったとし
ています。これは政府の評価とは違いますし、現在の政府の評価
をそのように変更することは関係国にとって受け入れられないもの
でしょう。そうした方向につながるのではという疑念を抱かせること
は関係国との関係を悪化させる恐れがあります。それを考慮するか
どうかは別としても。
原爆慰霊祭については、米国が現行の原爆投下への評価を変えて
謝罪するのであれば、関係国である日本は歓迎するでしょう。
この場合、評価を変えること、又は評価を変えるのではと期待させる
ことで日本との関係が悪化する心配はありません。
両者は真逆と言ってもよいのでは?
うやむやにしないで議論をということですが、結果として寛容を理由
に参拝を肯定するのであれば、議論の必要などないのでは?
内政干渉云々が誤解ということであれば、私の杞憂ということだと
思います。大変失礼しました。対外戦争という外交上の問題から
生じたものを、一般の内政問題と同列に扱うことは出来ませんので。
長文になってしまい、大変申し訳ありません。
>法的問題ではないが、何某か問題はある。しかし、寛容であってよいのではないかということだと思いますが
評価が違ったとしても参拝をしない決定的な理由にはならないと言っています。
>この場合、評価を変えること、又は評価を変えるのではと期待させることで日本との関係が悪化する心配はありません。
結果がよければ現時点で評価が違うことは必ずしも問題にならないという理解でいいでしょうか?
asoaさん、参拝するにしても、参拝しないにしても決定的理由という
ようなもの、おそらくは絶対的な必要性というものが明らかであるな
らば、こうした議論はそもそも必要ありません。
そもそも決定的理由というものが、どういうものであるのか非常に
疑問です。今年の終戦の日において首相は参拝していませんが、
国内外において大きな問題になったということはありません。
少なくとも、参拝をしなければならない決定的な理由もないようです。
参拝することについての問題点はこれまでに挙げた通りです。
asoaさんの批判に耐えうるだけの問題点は明らかに出来たものと
思います。
政教分離や、大東亜戦争に対する評価の違い、対外的な影響
などです。いわゆるA級戦犯の問題も、大きな論点でしょう。
対して、参拝しないことについての問題点は明確ではありません。
参拝はするか、しないかのどちらかですから、双方の問題点を
考慮した上で妥当なものを選択すべきことではないでしょうか?
米国云々に関しては、前に述べたように靖国神社の問題とは
性質が違いますので、それでどうだと言われても困りますね。
何を意図した対比であるのか、理解に苦しみます。