書評:危機の<現在>を読み解く動因としての社会心理 経済思想史における豊かな洞察はなぜ活かされないか? - 塚本恭章

アゴラ編集部

金融危機はなぜ起きたか?―経済思想史からの眺望
著者:松原 隆一郎
販売元:新書館
(2009-07)
販売元:Amazon.co.jp


『ケインズが「遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなく思想なのだ」と主張して『一般理論』を締め括ったことはつとに有名である。ただ今次の世界経済危機の真因が「思想」に深く関わっていることを直ちに見抜く人は少ないし、その「含意」が何であるのかを正確に把握することはより困難な作業に違いない。魅力的な副題が示唆するように、本書は表題やそうした問いを<経済思想史>のなかで読み解く金融危機・日本経済論。前著『経済学の名著30』の応用編と位置づけられる作品だ。

1980年代以降、ケインズ主義・福祉国家路線から新自由主義(市場原理主義)への支配的思想潮流の転換過程で、まさにアメリカ的「正義」が世界中を席巻しアメリカ自身がそれを意識的に強要する実態は、グローバリゼーションが時に「アメリカナイゼーション(アメリカ化)」と称されるゆえんだ。新自由主義(イデオロギー)・新古典派経済学(理論)・構造改革(政策)という連動しあう認識枠組みに基づく本書の批判的省察はつとに説得力に富み、経済思想の新たな可能性を十分に実感させるだろう。

以下では、相互に重なりあう2つの問題、

1)なぜ日本経済は深刻な長期不況・停滞から脱却しえないのか
2)なぜ経済思想史をめぐる豊かな洞察は活かされないのか

を設定してみよう。

まず1)について。

バブル崩壊に端を発する平成不況から、サブプライム金融恐慌をめぐる日本経済において主な経済政策論は、構造改革論と金融緩和・デフレ対策論であった。しかしいずれも当初の期待された成果をもたらすことなく、むしろ生産諸要素の不況非能率産業への逆流が生じ、内需拡大でなく日米金利差にもとづく米中への実質輸出の増大(輸出バブル)という一過性の景気回復にとどまった。なぜか。本書の「偽装された経済思想」と「忘却されたコメント」の内容からその理由が明確に窺える。

長期の不均衡をあらかじめ排除する新古典派では、長期における価格伸縮性を容認してもなお生じうる総需要不足(失業)の可能性を論じたケインズの経済学の意義も、「本来のケインズ的不況が日本経済を襲っていた」(64頁)という現況も理解しえない。構造改革論とは理想の「潜在成長率」の実現を図るべく雇用・土地・資本などの流動化(=自由化)を促進し、それらを阻害する規制・慣行、制度という「構造」の急速な解体を最善策とみなすものだが、欠陥を有した新古典派の理論構造に現実を接近させる構造改革論が行き詰まるのは当然の帰結ではないか。そこには「理論の絶対と現実の誤り」なる特殊なイデオロギーが伏在している。誰も貨幣を手放さないケインズ「流動性の罠」の状況下では金融緩和も概して効果を奏しない。

それゆえ人びとの主観的な「確信」を復活させること、換言すれば、「社会心理における不安を解消するように、慣行や制度、規制すなわち『構造』を改変すること」(117頁)を日本経済の最終的な指針とすべきという、一見自明に思える主張が実は必ずしも自明でないことが「思想史」の知見から鋭く説かれる。自生的秩序としての「法の下の自由」を人類社会に不可避とみなすハイエク、新古典派の「リスク」と異なり一義的決定性のきかない「不確実性」の概念を重視したナイトの学説がこうした文脈で再評価されるのも、思想史における「分断」を払拭する有意義な学問的姿勢あってのことだ。

2)についてはどうか。

新古典派が総じて<アメリカ経済学>であることに対峙し、18世紀から20世紀初頭に及ぶ<イギリス経済思想>を骨太に描き出す終章の概説が貴重な鍵を与えている。ヒューム、スチュアート、スミスそしてケインズに連なる「思想史」のなかで、商業主義と共和主義の対抗を起点とする数々の二分法的思考様式(主観と客観、財と貨幣、均衡と不均衡など)を脱却してゆく雄大な<知的ドラマ>から、新たな思想は人間の営みやそれが惹起しうるバブルなど「危機」を通じ生誕・発展することが再認識できよう。経済思想史の洞察を深く汲み取るためには相当なエネルギー、全体像を把握する総合力が求められる。思想史をまさに「眺望」できねばならない。

こうした理解は、「古典など克服されたかに思いこむような幼稚な心性の蔓延」(9頁)に警鐘を鳴らす冒頭の発言と共鳴していないか。「思想の限界」を許容しないアメリカのリバタリアンとは顕著に異なり、「背反する価値のうち一方に偏することに一貫して懐疑の目を向けてきた」(200頁)とされるイギリス経済思想家の問題精神も実に教訓的だ。理論・政策面で「社会心理(確信・不安)」を尊重する著者の主張がいかなる「思想史」(ケインズ以外では、ヒュームの「黙約」論やスチュアートの「信頼と貨幣経済」論)から導かれているのか、更には経済学の原点や本来のあるべき姿も探求されている。

2つの問いが自ずと喚起するのは、これからの経済学のあり方という3つ目の問いだ。ここでは、新古典派批判を推進しつつ、社会と経済の関係により広い視野から接近する<社会経済学>の可能性、そしてその拡充・深化にはあらゆる人びとが主体的に従事しうるとだけ述べておきたい(塩沢由典編『経済学の現在1』所収の松原論文「社会経済学の現在」を参照)。副題の「経済思想史」とはより正確には「社会経済思想史」といえよう。スケールとインパクトの両面で質の高い力作だ。
(塚本恭章 愛知大学経済学部専任教員(2011年4月から)/日本学術振興会前特別研究員博士(経済学:東京大学)