鹿児島の高齢夫婦殺人事件では40日に及ぶ裁判員裁判が実施されました。一方、最高裁のホームページには裁判員裁判の日程について次のように説明されていました。
「約7割の事件が3日以内で終わると見込まれています。事件によっては,もう少し時間のかかるものもあります(約2割の事件が5日以内,約1割の事件が5日超)」・・・同HPの裁判員制度Q&Aより
この説明を読んで40日もの長期裁判があるかも知れないと思う方は極めて少数ではないでしょうか。大多数の人は40日あるいはそれ以上の日程の裁判があることを意識せずに裁判員制度を受け入れたのだと思われます。
裁判員の負担を金額に例えるとわかりやすいと思います。「約7割の事件が3万円以内で済むと見込まれますが、事件によっては,もう少し高くつくものもあります(約2割の事件が5万円以内,約1割の事件が5万円超)」
鹿児島の事件ではいきなり40万円払えとなったわけです。まさに詐欺まがいの広告です。はじめからこんな長期の裁判のあることが明示されていれば裁判員制度への賛否は恐らく異なっていたでしょう(くじに当たれば拒否できないのが原則ですから)。最高の信用がある筈の最高裁がこの様ではちょっと困るわけです。
たしかに日程の上限が示されていないので、文章上は40日でも200日でも最高裁はウソを言ったことにはなりません。しかしあの広告から40日あるいはそれ以上を想像し得なかった多くの国民を実質的に騙したことになります。そしてこれは裁判員の負担という裁判員制度の根幹に関わる大事な問題です。
さらに別の問題も生じます。裁判の長期化によって裁判員に偏りが生じる可能性があることです。鹿児島の高齢夫婦殺人事件では裁判員候補の約8割が辞退したため、数が足らなくなって名簿からの抽出を2回して呼び出し状の総数を増やし、34人の出席を得たとされています。そこから裁判員6人と補充裁判員4人が選ばれました。
一般論としてですが、40日もの長期にわたって時間を空けることのできる人は限定されます。重要な仕事をしている人の大部分は不可能でしょうから、裁判員にはそれ以外の人々の比率が高くなることは十分考えられます。むろん彼らが裁判員として不適当だとは一概には言えません。しかしその中には高齢その他の理由によって記憶力や理解力などに問題のある人、社会経験の乏しい若年者などが比較的高い割合を占めることは容易に推定できます。
40日といった否認事件の裁判ではその長い期間に得られた多くの情報に軽重の評価をし、さらにそれらの関連を理解して、総合した上で結論を出すという、優秀な人でも困難な作業が必要になります。1ヵ月前の記憶は忘れるか、薄れがちになるでしょうし、直近の記憶は鮮明で印象も強くなります。そんな状況で記憶の強弱に影響されず判断することはたいへん難しいことです。もし誰かが作った要約を参考にすればその作成者の影響を受けてしまうこと避けられないでしょう。
長期裁判の場合、裁判員は時間を作れるかどうかによってスクリーニング(ふるい分け)されるわけで、裁判員に偏りが生じる危険性があります。裁判員は常識を備えた一般国民というのが裁判員制度の建前ですが、このケースのようにスクリーニングされた裁判員はその建前すら満たしません。
建前すら、と言ったのはスクリーニングがない場合でも、裁判員として想定される抽象的な一般国民というものはあり得ず、その都度くじで選ばれる6名の集団、ひとつ一つ性格が異なる集団によって裁かれるという、被告にとっては当たり外れが避けられない事実があるからです。スクリーニングは当たり外れをいっそう拡大することでしょう。
以前、朝日新聞は知的障害者を裁判員にさせる取組みを好意的に紹介していましたが(関連拙稿)、そこには国民からくじで選ぶという形式さえ満たされれば、公正な裁判に必要な裁判員としての判断力など考慮しないといった形式優先の考えが見られました。
長期の裁判員裁判においても同様、被告人を適切に裁くという裁判の本来の意味が軽視されているのではないかという懸念を拭えません。司法に国民を参加させるといったきれい事が実現されても、裁判そのものの機能が低下しては本末転倒です。刑事裁判は何よりも被告人のためにある筈です。
郵便不正事件で村木厚子さんの弁護人をつとめた広中惇一郎弁護士は、裁判官によってかなり差があるとした上で、次のように述べています(世界2010-12月号 P66)。
「自分のケースを見ても、無罪が取れた事件というのは、弁護人から見ると裁判官が非常に公正で良心的でクレバー(頭の切れる)な方でした。そうでない時は、ひどい結果になっていることは少なからずある」
できる限り適正な裁判を行うためには、逆に、社会経験や理解力など適正な判決を出すための適性を満足するためのスクリーニングが必要ではないでしょうか。スクリーニングされた職業裁判官ですら差があるわけですから、くじで選ばれる裁判員の資質に大きな差があるのは疑いようのない事実です。しかしそれに対しては何らの考慮もされていません。被告人にとって、裁判員の生半可な理解でもって、生死にかかわるような判決を下されてはたまったものではありません。