今回の最高裁判決に就いての感想は、「司法」よお前もか!と言った所である。行政の監督官庁である文化庁は、如何にも頼り無く、本業の神社仏閣の維持管理に専念すべきと思う事が多い。
著作権法が、こう言う不適切な解釈をされ、結果国民が不利益を嵩じるのであれば、本来、立法府たる国会で法律改正をすべきなのだが、どうも国会議員自体がテレビ局のお抱え芸人であったり、法を改正する能力が無かったりで、期待出来ない。
最後の頼みは、司法の適切な判断であったが、残念ながら裏切られてしまった訳である。どうも、次から、次へとこう言う事が起こると、菅首相は市民派の看板を掲げているが、実態は「既得権益」の守護神ではないかと思う、昨今の状況ではないだろうか。
此の判決の黒幕は、隣接権者と推測する。彼らが、濡れ手に泡で、利益を拡大する最良の方法は、ネット上のコンテンツの流れ全てに「自動公衆送信」の網掛けを行い、結果、彼らが許諾権を握る事で、業者を自己の支配下に置く事にある。
当たり前の話であるが、こう言った考え、手法はインターネットの哲学とは全く真逆である。Googleの標榜する「Don’t be Evil」のEvilそのものなのである。
従って、今回の判決は、被告の永野商店が、どうも有罪に成りそうだと言った、矮小化された物では無く、日本のインターネットが大きく歪められる可能性があると、危機感を持って受け止められるべき物であろう。
今回の判決を契機に、頭の悪い裁判官や、弁護士、そして文化庁の役人等相手にせず、インターネットユーザーで、テレビのクラウド化を加速してはどうだろうか。
そんなに難しい話とは思えない。今回、「自動公衆送信」と認定されたのは、「機器」と永野商店と言う「業者」が特定出来たからでは無いか。ならば、此の二つを不特定多数にしてしまえば良いのでは無いか。
具体的には、昨年10月にCEATECで東芝が発表したRegza Apps Connectや今月ラスベガスでPanasonicが発表した同様コンセプトのApps Connectを普及させれば良いだけの話と思う。
海外の在留邦人は、Apps Connectユーザーに拠って、メタデータにタグ打ちされたリストを下に、視聴しても良いし、新聞のラテ欄参照して、自分でタグ打ちし、自由に視聴する事可能である。コメントの書き込みも自由なので視聴後、国内の、同じ番組を観てる人々と、意見交換するのも、きっと楽しい筈である
隣接権者は、大好きな濡れ手に泡が期待出来ないので、テレビ局を嗾けて、又起訴しようとするかも知れない。
しかし、その場合、「機器」はスマホやタブレットPCと言う事に成るのだろうか。無理あると思う。さすれば、Apps。矢張り此れも無理あるのでは。
訴えるべき「業者」もはっきりしない。強いて言えば「クラウド」であるが。アメリカ、ネバダのDC迄、強制執行に行くと言うのは、余りに悪い冗談であろう。
どうも、インターネット時代には、既存の法律は古くて使い物に成らず、最高裁の判決も十中八九間違いそうだ。ならば、そう割り切ってあるべき未来をインターネットユーザー自身で構築し、その後で、立法府に実態に合った、法改正を迫るのが現実的と思うが、如何であろう。
山口 巌
ファーイーストコンサルティングファーム 代表取締役
コメント
菅首相の云う「市民」とは大いなる既得権者ではないだろうか。今の年金制度を守り、雇用制度を守り、官僚制度を守り、「強き弱者」を守る。雇用が守られれば企業が倒産しても良くて、倒産したら労組が強い企業は税金投入で救済する。規制による市場の不均衡で消費者が損を被っても、テレビ局の為なら規制強化。
やっていることは田中角榮の時代から変わらないのだ。政府と官僚はテレビ局を守るだろう。メディアを支配する威力は中国が証明している。仮に規制緩和で放送を届け出制にすると、政界や官界の影響力は弱まる。政治家はメディアを支配する誘惑には勝てない。官僚はそれに漬け込む。
民主化に必要なのは自由な個人の連帯である。しかし、自由な個人は自由な情報アクセス、平等な情報量、活発な意見交換によって確立する。新聞やテレビ局は情報アクセスを制限し、偏った情報を公平であるかのように見せ、偏った意見だけを過大に取り上げる。そんなメディアに期待するのは土台無理なのである。