著者:スチュアート ブランド
販売元:英治出版
(2011-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
★★★★★
Whole Earth Catalogueは1968年に創刊されたエコロジストの聖典だが、本書は70歳になったその教祖が書いた「現実的な環境主義者」の地球論だ。しかし「自然エネルギー」を信奉する日本の自称エコロジストが、本書を読むと怒るだろう。著者の提唱するエコロジーは、徹底して人工的な思想だからである。
著者の友人であるジム・ラブロックもいうように、「地球を大切に」などというのは人間の思い上がりで、ガイアは何十億年も人間なしで生きてきた。人類はその表面を少し引っかいた程度で、あと数百年で消滅するだろう。環境保全は、地球のためではなく人間が自分のために行なうのだ。
だから著者はグリーンピースのような「自然に帰れ」といったロマン主義を否定し、途上国も含めて人口を都市に集中し、効率的なインフラ投資を行なうことを提唱する。それは「母なる自然」に抱かれることではなく、テクノロジーを駆使して人工的な環境にさらに手を入れる「ガーデニング」のようなものだ。
したがって彼は再生可能エネルギーを「高価で役立たず」として否定し、地球温暖化を防ぐ決め手として原子力を推奨する。その発電量あたりのCO2排出量は太陽電池より低く、第4世代の原子炉には炉心溶融のリスクもない。放射性廃棄物についてもネバダ州の処理施設を視察して、核廃棄物の量が石炭の数万分の一であることを知り、原子力の管理は可能であると確信する。それを阻んでいるのは政治と感情である。
食糧問題も医療問題も、遺伝子組み換え技術を使えば解決可能だ。それを阻んでいるのも「自然の摂理に反する」としてDNA組み替えを規制し、「生命倫理」の名のもとにES細胞を禁止する政治である。それは「自然エネルギー」を好む人々と同根だが、「人工エネルギー」が存在しないように、遺伝子工学もDNAの動きを間接的に管理しているだけだ。人間には、遺伝子を人工的に作り出す能力はないのだ。
このように本書は、地球ではなく人間中心の「不自然」な環境論である。それはアドルノが指摘したように、自然を人間の都合に合わせて単純化し、テクノロジーで改造する啓蒙の極致であり、本源的な自然などどこにも存在しないという割り切った合理主義である。
近代科学がこうした西洋の自民族中心主義に他ならないことを誰よりも早く見抜いたのは南方熊楠だったが、彼のような聖者になれる人は少ない。凡人にとってはエネルギーも環境も「快適な生活」の要素だから、環境問題とは経済問題なのだ。したがって「環境か経済か」などという問題がナンセンスであり、著者もいうように無意味な「自然」への郷愁を断ち切ってテクノロジーを駆使すれば、環境問題は解決できる。