イスラエルに比べればはるかに簡単な日本の政治

松本 徹三

優れた指導者の不在によって近年日本の政治は混迷を極め、これが国力の退潮をもたらしつつあるのではないかという危惧が広がりつつある。特に今回の大災害とこれに連動した原発事故がもたらす長期的な経済的負担は、強い政治的指導力がなければ跳ね返すことは難しいかも知れないにもかかわらず、現在の政治的状況はなお混迷を極めている。首相の退陣時期を巡る低次元の争いは高い政治的な志とは程遠いものであり、後継者の政治的指導力も与野党の協力による挙国一致体制の確立も未だ全く見えてこない。


私は、「この際思い切って政治体制を抜本的に変えて、時間がかかってもよいから、この新しい体制から全く新しい人材が生み出される可能性に期待してみたら」と長い間考えてきた。そして、その中では、「首相公選、或いは更に思い切って大統領制を導入し、これとバランスを取るために、議会は比例代表の一院制にする」といった、荒唐無稽とも言われかねないようなアイデアも排除するべきではないと思っていた。しかし、結論から言うなら、「政治体制の抜本改革については、取り敢えずはやはり慎重に考えた方がよさそうだ」という考えに今は傾いている。

それと言うのも、今回たまたまビジネスでイスラエルを訪問する機会があり、その際にイスラエルの政治情勢について色々勉強することがあったからだ。

イスラエルの国会(クネセト)は定員120人の一院制。1992年に施行された政党法によって認められた政党のみに立候補が認められ、有効投票総数の2%以上を獲得した政党に対してドント式を用いて議席配分する。選挙区は全国区の一つのみ。選挙権は18歳以上の男女、被選挙権は21歳以上の男女に与えられており、諸外国に比べて年齢制限が低い。

任期4年のクネセトのメンバーの中から首相を選ぶ「議院内閣制」ではあるが、イスラエルの国民はそれぞれに自分の意見を強く持っており、その社会的出自(何処から何時頃移民してきたか)、宗教に対する考え方、パレスチナ・中東和平問題に対する考え方、経済政策に対する考え方等々が、それぞれに大きく分かれて複雑に交錯している為、一党が単独で過半数を制する事はとても不可能だ。その為、歴代内閣は例外なく「連立内閣」、それも「個々の政策については立場が相当に異なる多数の政党による連立内閣」である。

具体的には、総選挙が終わると、儀礼的な存在である大統領が最も有力と見られる政党の党首に組閣を要請し、その後の45日間で連立工作が完了する事になるが、この間の交渉は弱小会派による種々の恫喝まがいの要求を含めて複雑を極め、結果として新内閣の政策は初めから各種の妥協と取引を内包したものにならざるを得ないし、その後も事ある毎に少数会派からの政権離脱の脅かしを受ける事になる。

しかし、現在のイスラエルは、欧州各地で理不尽で残虐な迫害(ホロコースト)を受けた生々しい記憶を持つ人達の国であり、しかも一方では、種々の歴史的背景から未だにイスラエルという国の存立すら認めない人達を含むイスラム教徒に取り囲まれた国でもある。民族の存続を守る為には寸時も油断してはならない上に、あらゆる状況に機動的に対応する臨戦態勢の維持が常に必須条件になっている。

こういう状況下では政治の混乱は致命傷になるから、「首相公選制の導入によって、より強固で安定した政権が作れるようにしよう」という考えが生まれ、これが実行に移されるのは時間の問題だった。現実に、1996年の第14期クネセト選挙と1999年の第15期クネセト選挙において首相公選が同時に実施され、1996年には右派リクードのネタニヤフ首相が、1999年には左派労働党のバラク首相が、それぞれこの公選によって誕生した。(更に2001年2月にはバラク首相の辞意表明により単独の首相選挙が行われ、歴戦の勇将で国民的な人気が強かったシャロン氏がリクードの党首として首相の座についた。)

しかし、首相公選制の結果は国民の当初の期待とは全く裏腹なものだった。首相選挙こそリクードと労働党の二大政党間の僅差の争いとなったが、国民は、同時に行われた比例代表制のクネセト選挙においては、これとバランスを取ろうとするかのように、首相選挙では犠牲にせざるを得なかった「個々の利害」を直接的に代表してくれる別の政党に投票、結果としてクネセトの小党分立は更に促進される事になり、首相は力を得た弱小会派の協力を得る為にこれまで以上の妥協を迫られる事になった。

この事は数字の上では極めて顕著に見て取れる。1992年の総選挙時にはリクードと労働党の二大政党の議席の合計は120議席中の84議席を占めていたのに対し、1996年の総選挙ではこれが66議席に減り、1999年には合計しても過半数に達しない45議席にまで落ち込んだ。つまり、首相公選制が目論んだ二大政党制は皮肉にも首相公選制そのものによって崩壊してしまったのだ。この結果には誰もが失望し、首相公選制は2001年の選挙を最後に廃止されて今日に至っている。(これがもたらした改革としては、「内閣が総辞職したときには首相にクネセトの解散権が与えられる」という事があるぐらいである。)

僅かな期間滞在し、その間に見聞した色々な事に刺激されて若干の本などを読み漁ったぐらいで、イスラエルという国やイスラエル国外に1000万人以上はいるといわれているユダヤ人(*)のことが、或る程度理解出来たなどと言う積りはさらさらないが、知れば知る程に、イスラエルという国がおかれている立場は複雑であり、この国の政治が如何に難しいものであるかが分かる。(それに比べれば、日本という国の立場は比較にならぬほどに単純明快で、政治家に求められる判断力や指導力のレベルも特に何という事はない様に思える。)

(*) 国外にいるユダヤ人の内600万人近くは米国におり、偉大な科学者や芸術家、有力な実業家や財務・金融のエキスパートを数多く輩出している。

そもそも、両国の歴史を比較してみてもそうだ。日本の場合は、弥生式文化が浸透して国家らしいものが成立してからの歴史は極めて単純だ。古代史においては中国の魏志倭人伝に書かれている「卑弥呼」というシャーマンの墓が何処にあるかが最大の論争の種になるぐらいだし、それ以後は明治維新に至るまで国際的な規模での大事件は殆どない。第二次世界大戦に惨敗し、多くの日本人が悲惨な体験をしたが、国の指導者には最後の最後まで「ソ連の仲介」に期待したり「国体の護持」にこだわったりする甘さがあった。

これに比べれば、3500年以上前から現代までに至る、ユダヤ人の広範な地域にまたがる流転と、国家の興隆と滅亡を含む数百数千にも及ぶ大事件の数々は、気の遠くなるようなスケールであり、その「複雑さ」と「苛烈さ」は比類のないものである。そして、現在のイスラエル人は紛れもなくこの民族のDNAを引き継ぎ、そのアイデンティティーを堅持しようとしている人達なのだ。

今回共に多くの時間を過ごした私の友人である若いビジネスマンは左派に属し、パレスチナ問題についても融和的で私の考えに近かったが、それでも自ら求めてゴラン高原の前線で戦い、その時の負傷の痕を今も抱えている。国民の男女全てに兵役(*)が課せられているが、その入隊式は、今から2000年近く前に967人のゲリラが15000人のローマ兵と2年にわたって戦って遂に全滅した「マサダ」という岩山の頂上で、現在も行われていると言う。

(*)イスラエル国内を遊牧するベドウィン族の人達も例外ではない。但し宗教的な理由で兵役を拒否する超正統派の一部のユダヤ教徒は、多くの批判にもかかわらずなお兵役義務から除外されている。

省みて日本の現状を見ると、日本人のアイデンティティーは何処にあるのかも定かではない。右派も左派も単純で、深く厳しいものの見方に欠け、歴史の教訓から学ぶ姿勢もさほど見られない。現在の状況下でも、「経済的国難」と口では言っても、「それでは、何処に突破口を見出すべきか」という奥深い洞察は、政治家の口からも経済人の口からも未だ聞かれない。

私の今回のこの記事は、たまたま訪れたイスラエルの政治状況に関連して、たまたま心に浮かんだ事を漫然と書き連ねたに過ぎず、特に何を提案しているわけでもない。しかし、イスラエルの政治家に比べれば日本の政治家が抱えている課題は比較的簡単なものなのだから、ちょっとした努力でもかなりの結果は出せる筈だとは、一言言ってみたかった。