世界が求める英語力について

松岡 祐紀

20歳の頃に留学し、それ以来色々な国を旅をしているが、ここ最近強く思うのは「英語が話せることは当たり前」ということだ。別にもはやそれが特別なことにはならない。10年前ならば英語を話せば、「どこで英語を学んだか?」と訊かれたが、今はそんなことを訊く人はいなくなった。

当然、各国それぞれの英語があり、訛りの強い英語を話す人もいるし、彼ら独特の特徴があってとても面白い。

英語をひとつの言語として捉える人よりは、コミュケーションの道具として割り切って使用する人が圧倒的に増えた。英文学者からしてみれば由々しき事態かもしれないし、英語が持つ言語的な豊かさが伝わらないのは残念だが、すでに世界では英語と言えば、「外国人とコミュケーションを取る手段」として位置づけられている。

だから、「日本語訛り」「シンガポール訛り」「スコットランド訛り」云々の話を聞くと、「いまさら?」と思う。


正直、誰もそんなことを気にしていない。むしろ、英語なんて訛っていて当たり前だ。英語が英国人やアメリカ人のものだったのは過去の話となり、英語は世界の共有財産となった。

今、求められている英語は「コミュケーションを成立出来る英語力」であり、完璧な英語ではない。誰もそんなものを求めていないし、たとえ完璧な英語を話せたところで、つまらない話しか出来ないのあれば相手にされない。

今、英語を話せることが当たり前になった以上、外国人から相手にされるためには「それ以上のブラスアルファ」が必要であり、それは個人の資質、経験、知見だったりする。語学力が劣っているのであれば、誰にも負けない一分野における圧倒的な知識を身に付ける、ようは一種のオタクになることは必須だ。(ちなみに自分は映画オタクだったので、留学したての英語が話せない頃は、好きな映画監督の固有名詞だけはきっちりと発音あるいは書くことを覚え、会話をなんとか繋げていた)

「コミュケーションを成立させる一番の要素は何か?」と問われれば、それは相手をいかに自分の土俵に引き込むかということだ。相手が自分に興味を持たなければ会話は成立させられない。当たり前のことだが、日本人の場合は英語の勉強ばかりに特化し過ぎて、このことを根本的に理解していない人たちが多いように思える。

ひどい英語でも相手を虜にする人は実際すごく多いし、日本人が思うほど外国人は英語の間違いなんて気にしない。むしろ、外国人は英語を間違えて当たり前だと思っている。

語弊を怖れずに言えば、「英語なんて通じればいい」のであって、最終的な成果に繋げるためには、語学力よりも「個人の質」が問われる。そのことだけは、今後は肝に命じておくべきだ。

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