日本人はなぜ議論ができなくなったのか(前編)

矢澤 豊

イギリスでの法学生時代から、ディベートがヘタクソだった私がこんなお題で書くのも「おもはゆい」が、先週からのお約束なので一筆啓上つかまつる。

「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず(知彼知己、百戰不殆)。」
魏武帝註孫子、巻上、謀攻編

ディベートにしろ、ビジネスにしろ、もちろん「戦争」にしても、人と人とが競合する場合の真実を、中國の孫子サマはすでに2,500年前に喝破している。

日本の書店で百花繚乱の「○○力」ハウツー本のたぐいのなかでも、ディベート力、プレゼン力、会議力、交渉力など、広義における「議論力」向上のスキル本は大人気とみえるが、その多くは、

「NOと言わせない!」
「必ず言い負かす!」
「絶対の説得力!」
「自分を売り込むセールス術!」
「外国人に負けない!」

などなどと、やたらと鼻息の荒い、謳い文句がオビを飾っている。

しかし、孫子のジイサンの指摘を待つまでもなく、「議論」におけるはじめの一歩、基本のキホンは「説得」ではなく「理解」にある。

むやみやたらに「言い負かす」だの、「売り込む」だのという行為は、「議論」ではない。

みずからの主張の絶対の正統性を信じるもの同士が、ただ声を張りあげて、言い争うことを「議論」とは呼ばない。それは「折伏」という宗教活動だ。合理的な現代文明人同士がたしなむべき社会行為ではない。

議論において相手を「理解」するということは、ただ単に、

「こっちがこう言えば、向こうはこう言うだろうから、そこはこう反論する。」

などという、議論上の戦術予想をたてることだけではない。

「どのように論を進めるのか」という、いわば「口先だけ」の問題ではなく、より一層深いところ、つまり相手の反対意見が何に依拠しているのかを探ることが重要なのだ。

そこにはヌキサシならぬ利害関係があったり、経済的理由があったりするだろう。

しかし一番深いところには、それらを全てひっくるめた、反対論者のアイデンティティーに根ざした価値観が存在する。

ちょっとしたコツを学ぶだけで、どんな人とでも仲良しになれるんだよ。それはね、どんなことでも、その人の立場に立って考えてみるということなんだ。いちどその人になったつもりで、あれこれ考えてみなければ、その人のことを、本当にわかることはできないのさ。
(アティカス・フィンチ「アラバマ物語」)
If you just learn a single trick, Scout, you’ll get along a lot better with all kinds of folks. You never really understand a person until you consider things from his point of view… Until you climb inside of his skin and walk around in it.
Atticus Finch in “To Kill a Mocking Bird”

相手を理解するということは、その人の考えを共感(empathise)するということだ。

概して日本人は同情(sympathise)できても、相手の立場で「共感」することが不得手のように見受けられる。それは多分、日本人社会における「均一化」のプレッシャーが、異質なものに対する感度を鈍らせているからだろう。

話がズレるが、アメリカ人も「共感」するということが苦手だといわれている。

あくまでも「お芝居」の世界における、一部の意見だが、イギリス流の演技では役に対する「共感」ということに重点をおくが、アメリカでは個々の自己主張が強いので、役に「なりきる」というメソッド演技法が一世を風靡した、といわれている。

映画「マラソン・マン」で、イギリスの名優、ローレンス・オリヴィエ演じるところのナチの残党に追いつめられるユダヤ系アメリカ人を演じたダスティン・ホフマンは、役作りの為にモウレツな減量をした。その苦労をみるにみかねたオリヴィエはホフマンにこう言ったという。

「ぼうや...『演技』をしてみてはどうだね?」

アメリカのディベート方式として有名なものに、「リンカーン・ダグラス・ディベート」というスタイルがある。

これは1858年に行われた、アメリカ、イリノイ州の上院議員選挙におけるエイブラハム・リンカーンとスティーブン・ダグラスの奴隷制問題に関するディベートに倣ったものだ。

このスタイルでは、討論の勝敗を決めるのに、論者の主張の「倫理性」が大きなポイントになっているため、いささか「折伏」に近くなってしまうキライがある。

論者同士のレベルが拮抗した、真の相互理解の上に立脚した「議論」の効用は、論点の相違を明確にするだけではなく、反対の立場をとるもの同士の間に存在する、共通の価値観に日を当てることにある。それは「言論の自由」の尊重であったり、「民主主義プロセス」への敬意であったり、または「愛国心」であったりする。

論者は「議論」を通じて、反対意見を戦わせる「呉越」の関係でありながら、「同舟」である現実を再確認するのだ。

論者の立場、言い分は、それぞれにあるだろうが、一般大衆としての聴衆にとって、解決策は往々にして、両者の中間にある。

残念なことに、現在日本の公の場で行われている「選良」であるはずの政治家先生同士の「議論」は、どちらかといえば「折伏」に近い。みな自分の主張を「正」とし、その他を「異」ではなく、「邪」、または「悪」と決めつける。

私はこの問題の根本には、日本の教育のありかたがあると思う。

全ての与えられた問題に対して、他に先んじて「正解」を求める習性を教え込まれ、人をしのいで出世を果たした日本式エリート先生方には、相手に「共感」する知的想像力や、心の余裕、そしてなによりも「優しさ」が欠けているのだろう。

相手を「理解」することの重要性の対照の位置に、「己を知る」、つまり自らの主張を正しくとらえ、これを伝えることがある。これに関してはまた次回にゆずろう。

オマケ

オリジナルのリンカーン・ダグラス・ディベート(1940年の映画「Abe Lincoln in Illinois」から)