「いいご身分」の人たちの国、ニッポン

矢澤 豊

ここ数ヶ月、震災ネタをとりあげることを、あえて自重していた。理由は前述しているので、ここでは繰り返さない。

しかし、あまりの復興政策(そしてそれとすり替えられたエネルギー政策)に関する議論の進展と、決着の遅さに、シビレが切れたので、前言撤回。ご寛恕いただきたい。


日本の経済界、とくに製造業は、たいていの場合において、「さすがは日本」と思わせる、瞬発的ともいえる自己修復能力を発揮した。 民間で可能な限りの範囲内だが、復興への道を歩みつつあるように見受けられる。

しかしこの国の頭脳部分にあたる政治家、官僚、そしてその神経ともいえるメディアは、「蝸牛の歩み」。

いや、カタツムリにいわせれば

「オレはノロイかもしれないが、少なくともどっちへ進んでいるのかぐらいはわかっているゾ」

と怒るかもしれない。

震災後、政治家さんたちが、本業そっちのけで顔を出していた、さまざまな「震災復興勉強会」や「復興会議」。

その報告やらレポートやらを、ネットで拝見したが、初めは呆れ、その内に怒りが込み上げ、最後には笑ってしまった。

これらの勉強会の結論、提言はだいたい以下のパターンで締めくくられている。

「この未曾有の災害にあたり、我々は○○の重要性を再確認する。」
「今後の復興にあたり○○のより一層の推進が必要であるという認識を共有する。」
「その為に産学官の連携を以前にもまして密にすることで合意する。」

○○の部分はなんでもいい。農協でも、ITでも、とにかく経済利権団体、や業界の名称を埋め込む。

ようするに、これらの勉強会やら会議に参加し、毒にも薬にもならない意見交換をしていた「いいご身分」人々の本音は、

「この未曾有の災害にあたっても、我々の利権構造は変わらない。」
「我々の利権構造が介在しない復興政策は、あり得ない。」
「お互い、ぜったいに、抜け駆けは許さない。」

ということだ。

被災者の救済よりも、己の地位の保全を優先していたのだ。

政治経済学の第一定理:「すべての政策のムダは、かならず誰かの収入である。」

この期に及んで、いままでの社会の仕組みの見直しと取捨選択の議論、改革の話がまともに発展しないというのは驚きだ。非効率かつ不公平な賠償案のみが俎上にあがり、エネルギー政策に関する、非現実的な感情的議論に終始している。

結果として、東電はおろか、日本の電力事業の枠組みにも、なんの進化もない。

もちろん、絵に描いた餅としての「再生エネルギー政策」も、政治家の「自分の地位の保全」への方便にすぎない。

一連の「大連立」に関する騒動も、首相退陣論も、すべては個々の政治家の「自己救済」が動機であり、「自己救済」を目的としている。

以前のエントリーにも書いたが、こうした政治家たちを初めとする「いいご身分」の人々の正体は、

「エライ人になる」=「いかにして『ニッポン』に寄生するか」

という目的の為に、人生を費やした人々であり、こうした人種を増長させたのは、 責任回避を第一とし、長いものには巻かれろ主義を奉じた、日本の一般大衆だ。

震災で尊い命をなくされた人々の為にも、これからの日本をよりよくするためには、こうした「ニッポン」の既存の価値観を、ひとつひとつ打破していかなくてはならない。

その手始めに、先週、池田さんが掲示したお題

「なぜ日本人はまともな議論ができないのか」

ということを、次回のエントリーで考えてみたい。

ひとまず今回は、松本龍氏(福岡1区選出)復興担当大臣、に一言。

「おまえ、それでも九州の人間か?」

たぶん知らないと思うので、野暮は承知で言い添えておくが、「草野球のキャッチャー」ということだ。

オマケ:世界が見ているのはこうした日本人