FRBは岐路に立たされた。
バーナンキはジャクソンホールで、三択を迫られる。
これは金融業界関係者が思っているよりも遥かに重い選択だ。金融関係者にとっては、いつものリスク資産高騰への一つのロビーイングに過ぎないが、中央銀行の歴史に残る決断となるだろう。
もはや、米国中央銀行は金融市場における投機家(機関投資家や投資銀行などすべてのいわゆるエリート金融関係者全員のことだ)の僕(しもべ)だ。株価、リスク資産の価格高騰、あるいは出口(売り場)を提供する機関となってしまった。それは中央銀行の意図を離れ、金融市場が経済の中心になってしまったと米国民が思っている以上、止むを得ない。彼らの圧力に従い、救済するだけでなく、利益を供与しないといけない。金融市場の膨張のためだけに金融政策、中央銀行はある。パリバショック、リーマンショックは実体経済への波及効果があまりに強烈だったから仕方ないが、QE2では金融バブルのためだけの政策となったし、それが誰の眼にも、そして何よりFRB自身が痛感した下で、もう一度QE3をやると言うことは、中央銀行は今後、金融市場の投機家のために存在することを宣言することになる。これが一つの道だ。
第二の道は、国家権力の手段としての道。短期に雇用を創出するため、実体経済を刺激するために、あらゆることをする中央銀行となる。FRBはもともと雇用が中央銀行の目的として明示されている。日銀にはこれがないことが民主党、自民党的には批判の対象となっているが、これは実はかなり特殊だ。米国に限った話である。なぜなら、経済の健全な発展という日銀の目標の一部が雇用であり、雇用は重要であるが、経済のそれは一部、大きくあっても一部であり、そのほかの部分があるということだ。
そのときに、経済全体にとってベストなものではなく、雇用を優先するというのは極めて政治的だ。なぜなら、政治的投票は一人一票、資本市場的投票は1ドル一票。だから経済の論理よりも得票に結びつく政治的な目的により雇用を最優先させるのだ。
それは必ずしも悪いことではない。実際、個人的にはGDP成長率よりも雇用が重要だと思っている。社会政策として。しかし、それは政治的判断であり、雇用を経済の中でも最優先とする、ということは政治的価値判断をしている。その意味で、中央銀行は政治に組み込まれる。
政治的な独立性は、政府の借金救済のための直接引き受け、インフレ政策などについて普通は語られるが、そうでなくとも、もっと根源的に政府からの独立していない要素がある。
あくまで、政府の手段としての中央銀行なのだ。インフレを起こしやすいという通貨発行権を持った政府の欠陥を是正するための矯正装置であり、だから、雇用と言う政府の政治的目標には忠実であらねばならない。インフレ対策もあくまで政府のためであるというたてつけになっている。
第三の道は、国家からの独立だ。FRBは国家により設立されたが、設立されて力を一旦持つと、その組織は人格を持つ。ヒト化するのである。そうなると、中央銀行は中央銀行のために働く。
中央銀行のためとは何か。通貨価値を守ることだ。つまり、通貨のために中央銀行は存在することになる。
これは中央銀行直接的な目的に最もしっくり来る。通貨の価値を守るために、国家は中央銀行を独立させた。そして中央銀行は通貨発行をコントロールする独占権を得た。しかし、それは政府の監視の下にあり、人事権は政府が握るから、あくまで政府に政治的にも従属するはずだった。ところが、政府に従属しないという目的を達成するために政府がデザインして支配しようとした組織は、その目的を達成するためには、政府に支配されず独立を維持することが政府にとっても重要だから、独自の人格を持った。
こうなると、政府のコントロールを超える。なぜなら、通貨に依存する利害は、政治に依存する利害よりも大きいからだ。少なくとも金融市場に関しては、中央銀行のほうが大統領よりも遥かに重要であり、米国政治の及ばない世界市場全体が米国中央銀行に依存している。
ならば、中央銀行は生みの親であり、保護者を超えて、国境を越えて、世界経済の中のプレイヤーとして独立するのは必然だ。これに政治的なガバナンスを特定国の政府がかけようとしても難しい。なぜなら、世界経済につらべて一国政府が弱い今、世界経済の意向を受けて、米国政治は動かざるを得ず(それは財政破綻が近づいていることにより、この要素は強まっているが、本質的には財政破綻と関係なくこの構造は存在する)、結果的に、中央銀行に大統領は一方的な上下関係として影響力を行使することはきわめて難しい。
ここに、通貨は国家を超えて存在するようになる。
しかし、一方、これは通貨の本質であり、根源的なものであり、かつ歴史的にもそうであったのだ。
国家は通貨発行権を得るための道具である。
これは資本主義を貫く一つの真実である。
第三の道は、FRBがこの伝統を守り、また近年あいまいになっていた中央銀行と通貨の本質を社会に再提示する最大の機会を捉えるという決断を意味する。
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具体的には、QE3に踏み出すとは、第一の道であることをQE2の流れを受けて再確認することである。第二の道は、QE3はとらずに、景気浮揚、雇用のための手段を、リスク資産市場の高騰を招かずにとろうとすることである。第一の道と第二の道のミックスは、リスク資産は買わずに、米国政府国債だけ買う、という選択肢であるが、これは伝統的なマネタイゼイションにあたるという認識があることから、これは忌避されるだろう。
しかし、意図とは異なるが、この結果、FRBは国家よりも金融資本を重視することになる。その結果、国内実体経済を救う中央銀行とは労働者としての国民に認識されなくなる。ここに実体経済と金融市場との乖離が、政府ではないが中央銀行により作られてしまう。
本来とるべき道は、QE3は行わず、欧州中央銀行のように、量ではなく、リスク資産市場の崩壊が金融市場の機能不全としてマクロ実体経済に大きなダメージを与えるときに限り、資産(金融商品ではあるが商品としてではなく、実物投資の一環としての金融資産)購入を行うという立場を鮮明にすることだろう。ECBはギリシャ国債を買ったときに、ドイツ国債を売り、このスタンスを明確にしている。
ECBは形式的にも政府、政治から独立しているから、より進んだ中央銀行といえ、また同時に原点に近い中央銀行と通貨なのである。
一方、FRBはそのようなスタンスを取り続けられるかどうかは疑問で、今回QE3を回避したとしても、今後常にその道へ転換する可能性があり、その意味でFRBがどこかで明示的に金融資本のために存在するわけではないことを行動で宣言する必要がある。
そのときは金融市場は大混乱することになり、そのFRBは度胸がないから、米国中央銀行の未来は暗いものとなるであろう。