民主主義の過剰 - 『一般意志2.0』

池田 信夫

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
著者:東 浩紀
販売元:講談社
(2011-11-22)
販売元:Amazon.co.jp
★★★☆☆


大阪のダブル選挙で、橋下・松井の「大阪維新の会」が当選した。8時過ぎに当確が出たということは、かなりの大差で圧勝すると見ていいだろう。私は橋下氏の政策にも人格にも共感しないが、彼の独裁をめぐる発言には注目している。もはや民主主義では日本の現状はどうにもならないから、大阪府民は彼を選んだのではないか。

その意味で、ルソーをテーマにした本書のねらいはおもしろいのだが、その方向は微妙に現代日本の問題とずれている。ルソーは一般にいわれるのとは異なって民主主義の元祖ではなく、彼が『社会契約論』で主権者とした一般意志は、それを民主的に集計する手続きのない絶対君主の意志のようなものだ。カール・シュミットが一般意志の概念でヒトラーの独裁を擁護したことはよく知られている。

この点で著者の解釈は、学問的には新しいものではない。本書の「現代性」は、一般意志をソーシャルメディアと重ね合わせて一種のデータベースと考え、そこに集合的無意識としての「一般意志2.0」が成立すると考えたところだ。これは『スマートモブズ』などでおなじみの「集合知」の話だが、政治的には無意味なユートピアニズムでしかない。それは国家が何よりも暴力装置だという事実を理解していないからだ。

主権国家にとって、民主主義は本質的ではない。主権が国民にあるなどというのはフィクションで、実際に暴力装置を行使するのは首相や大統領である。それをチェックするのは法の支配であって、それが民主的な手続きで立法される必要はない。事実、イギリスの最古の法律はコモンローとして慣習的にできたものであり、合衆国憲法も、『ザ・フェデラリスト 』を読めばわかるように、民主主義に歯止めをかけるためにつくられたものだ。それは暴力装置としての国家が、集合知にはまかせられない危険物だからである。

他方、いま日本の直面している問題は逆である。「平和憲法」によって暴力装置を奪われ、去勢された日本は、アメリカの庇護のもとに徹底的な民主主義を続けてきた。政治でも企業でも、すべての意思決定は全員一致で行なわれ、そういう合意が形成されるまでは決定を先送りする。このような過剰な民主主義が国家を麻痺させ、意思決定を不可能にしてしまった。今の日本に必要なのは、ルソーのいう独裁的な「立法者」だろう。

ところが本書は国家権力の問題を無視しているため、そこで描かれるユートピアは、国民が国会審議を見てツイッターやニコ生でコメントする、といった漫画的なものでしかない。集合知で政治を動かすことはできないし、そういう「参加民主主義」は望ましくもない。むしろ平均1.4年に1度も選挙があり、人々が過剰に政治参加することが、原発やTPPにみられる政治の劣化をもたらしているのだ。いま日本に必要なのは、むしろ民主主義を減らす改革である。