一般的に、放射線の安全基準は、厳しくすればするほど原子力施設の建設費やランニングコストが高くなる。それゆえに良識ある医師や反核運動家が、放射線の基準を厳しくしようとし、原子力利権に関わる組織や人、つまり原子力ムラが放射線基準の緩和を求め、それがバランスすると考えられているようだ。しかしながら、福島第一原発での事故が起こる前は、人々の間で原子力に対する関心は驚くほど希薄だった。そのような中で、池田信夫氏も指摘するように、放射線の安全基準が年々、厳しくなっていったのである。動物実験や分子生物学の研究により、低放射線被曝の安全性を確認するデータが次々と見つかっているにもかかわらず、だ。なぜだろうか?
筆者の仮説は、厳しい放射線安全基準を求めたのは他ならぬ原子力ムラである、というものだ。あらゆる既得権益は、参入障壁を高めることにより自らの権益を守ろうとする。その手段は多岐に渡るが、典型的なものは、法規制や業務プロセスを複雑化することにより、内部をブラックボックス化し、外部の人間によるチェック機能を麻痺させ、健全な批判を極めて困難にすることである。金融業界でいえば、一番上の全体に関わるレイヤーでは、民間の金融機関と政府の規制当局とによる阿吽の呼吸により、金融行政に関わる法規制を複雑極まりないものにしている。これによって、この強固に守られた既得権益に、外部から参入することはほぼ不可能になる。そして、インナーサークルのメンバーだけで、莫大な利益を分け合うのである。
ミクロな視点で見ても、業務プロセスの複雑化、ブラックボックス化による既得権益の防護はあらゆるところで観察される。金融機関のITエンジニアは、自らが開発するシステムの可読性を意図的に低下させ、自分にしかわからないコードを大量に生み出している。こうすることにより、自分にしか保守できないシステムに業務プロセスを依存させ、自らの雇用リスクを極小化しているのである。
放射線の健康被害というのは、医学的には喫煙による健康被害の次に活発に研究された分野で、極めてよく理解されているのである。よく放射線の健康被害に関しては専門家の間でも意見が割れていて分からない(よって危険である)ということがメディアで誇張されているが、これは極めて無責任な報道であろう。近日中に出版される拙著
それでは、なぜ原子力ムラは、放射線の安全基準を厳しくしたのであろうか。それは多くの官僚組織や業界団体が、その既得権益を守るために様々な障壁を作ったとしても、個々のプレイヤーはそれほど自覚的に動いているのではないのと同様に、微妙な集団的なインセンティブに突き動かされていると考えられる。さて、筆者の仮説を組み立てるひとつ目の仮定は、原子力ムラは、本当に先進国でシビア・アクシデントが起こるとは全く想定していなかったということである。これは全くもって無理もないことである。金融業界ではヘッジファンドがたまたま3年も続けて儲ければ、それは永久に続くと多くの投資家が勘違いする。OECD諸国での原発のシビアアクシデントは、なんと1979年のスリーマイル島原子力発電所事故にまで逆上る。チェルノブイリは1986年であるが、それとて25年も前の話で、なんといってもあの崩壊した旧ソビエトである。先進国で原発のシビアアクシデントなど起こるわけがない、と原子力ムラが心底信じていたとしてもなんら不思議ではない。
さて、原子力ムラが原発のシビアアクシデントが起こらないと信じていたとしたら、放射線の安全基準が年々厳しくなっていくのは自明なのだ。放射線安全基準は、人体への影響というよりも、原子力ムラの一角を構成するGE、アレバ、東芝、日立、三菱重工などの原子力メーカーの放射線防護技術のレベルに応じて引き上げられていくはずなのである。極めて微弱な放射線をも許容できないとなると、原子力発電に関わるあらゆる要素技術が非常に高価になり、また、一部の原発メーカー以外に参入することが著しく困難になる。これはそういった一部の原発メーカーにとって極めて都合が良い状況である。原子力ムラにしてみれば、自分たちで達成できるギリギリの放射線安全基準を法制度化するのが経済合理的なのだ。
筆者は常々、規制緩和が経済を活性化させ、長期的な国民の利益になると主張してきた
参考資料
「反原発」の不都合な真実、藤沢数希
放射能と理性、ウェード・アリソン (著)、峯村利哉 (翻訳)
放射線医が語る被ばくと発がんの真実、中川恵一