暇つぶしという重要な問題 - 『暇と退屈の倫理学』

池田 信夫
國分 功一郎
太田出版
★★★★☆



人生とは何か、という問いに対する答はいろいろあるだろうが、私の答は中学生のころパスカルの『パンセ』を読んだときから同じだ。それは気晴らし(divertissement)である。これは適切な訳語がないが、「人生に意味がないという事実を忘れるために常に何かをして気をまぎらわせること」といった意味である。

パスカルは、兎狩りに行く人を例にとってこれを説明している。狩りは兎を手に入れる手段としては不合理だが、人々の目的は兎をとることではなく、狩りに夢中になって気晴らし(暇つぶし)をすることなのだ。これをパスカルは自己欺瞞と考え、神の中に意味を見出そうとしたが、その著書『キリスト教弁証論』は未完に終わり、断章だけが残された。

それ以来、退屈や暇つぶしについての考察は、西洋哲学の重要なテーマである。ニーチェは退屈をニヒリズムと呼び、それを克服する「超人」を構想した。他方、マルクスは「必然の国」の彼方にある「自由の国」の目的を「労働時間の短縮」に求め、暇な時間を拡大することを社会の究極の目的とした。

20世紀になると、ラッセルもハイデガーも暇つぶしを哲学の最大の問題だと考えた。この一つの原因は、著者も指摘するように、人々が物質的に満たされ、暇ができたためだろう。かつて兎狩りのような暇つぶしは貴族だけの特権だったのだが、先進国ではすべての人々がそういう贅沢な悩みをもつようになった。いま発展している産業は生活必需品ではなく、SNSやソーシャルゲームなどの暇つぶしである。

退屈が人間にとって苦痛になる原因を、著者は進化心理学に求める。人類は歴史の99%以上を狩猟採集民として過ごしてきたので、つねに変化する環境に適応するのは得意だが、定住によって同じことを繰り返すことは生理的に耐えられなくなり、つねに新しいものを求める。そういう欲望を制度化したのが資本主義で、ここでは立ち止まることは敗北を意味する。

日本も高度成長期には富を求めて走り続けることが暇つぶしになっていたが、これからは団塊の世代が引退して、いかにあり余った時間をつぶすかが切実な問題になるだろう。それは人生の意味への渇望なので、経済成長は答にならない。人々が移動の自由を奪われ、きわめて洗練された暇つぶしの技術をもっていた江戸時代が一つのヒントになるかもしれない。

暇つぶしという観点から西洋哲学を見直す本書の発想はおもしろいが、その「倫理学的」な結論は抽象的でつまらない。「何をすべきか」という倫理がない状態が暇なので、その本質的な退屈に向き合うことが、衰退時代の日本の生き方の出発点だろう。