維新の会の「維新政治塾」は、3326人の応募があり、1次審査の書類選考で絞られ、46都道府県からおよそ2024人を超える人たちが参加して開講されました。6月までに計5回の講義を重ね、正規の塾生として400~千人程度に絞り込む予定だそうですが、早くもマスコミやブログなどで批判や懸念が散見されます。
しかし、それらのなかには的のはずれたものも多いように感じられます。期待が大きいから、まるで阪神タイガースのファンが選手に厳しい言葉を投げるように、批判や懸念を投げかけるのでしょうか。
「維新政治塾」に集まった人たちは、しょせん素人の集団で、とてもではないが国政を担える人材がでてくるとは思えないという声も目立ちます。しかし、ビジネスの世界から学ぶことがあるとすれば、革新は辺境からやってくるのです。業界を熟知した玄人、成熟したビジネスのしくみの限界を破るのは、業界の辺境からやってきた素人たちであることが多いという教訓があります。
政治の玄人といえば、圧到的に長い間政権を担ってきた経験を持つ自民党でしょう。しかし、自民党政治は行き詰ってしまったのです。いま起こっている少子化問題、財政問題、年金問題、原発問題にしても自民党政権が残したツケという側面は否定できません。玄人だからいい政治ができるとは限りません。玄人にも限界があったのです。
この政治塾に集まった人たちを、小泉チルドレンや小沢チルドレンに重ねあわせ、一時的なトレンドに乗っただけに過ぎない、それを繰り返そうとしているという批判もあります。しかし小泉チルドレンや小沢チルドレンは、郵政民営化に賛成か反対かで、また自公か民主かのいずれが政権を取るかの選挙で、にわかに集められた人たちでした。
決定的に異なるのは、維新の会はいまは国政への影響を生み出せるかどうか、また政党の再編を促せる勢力となれるかどうかのレベルでしかなく、いきなり政権を取るかどうかの段階にないことです。しかも、たとえ講義形式であれ、集まった2000人から6月の段階でさらに絞り込むというのですから、同一には扱えません。まだそういった批判や懸念を表明することはフェアではありません。
たしかに、もっと異なるやり方もあるのでしょう。ワークショップを繰り返し、生きた対話のなかから、人材を見出していく方法も考えられます。ソーシャルメディアを活用すればいいという発想もあるでしょう。それは、また維新の会とは異なる政党が考えればいいいことです。結果が見えていない段階で、絶対これでなければ駄目だと決め付けることはできないはずです。
さらに、「改革」という甘い幻想に惑わされるなという批判や懸念も多く見受けられます。小泉改革も続かなかった、民主党も国民が期待する改革を進めることができなかったことへの失望感から、「改革」を疑う気持ちは理解できます。
これは批判の対象が違うだろうと感じてしまいます。イノベーションを阻むひとつに、「失敗への道は善意で舗装されている」という格言がありますが、それに近いものを感じるのです。ビジネスの世界でも新しいアイデアを潰す典型的な言葉は、それは「昔やってけれど駄目だった、同じ事を繰り返すだけだ」というものです。もう騙されないほうがいいよという甘い言葉で、いまの政治を結果として擁護し、出口なしの状況へと誘う質の悪い立ち位置を感じます。
日本には多くの改革が必要なことはいうまでもありません。途上国型の官僚主導、中央集権の国の構造の制度疲労や弊害から抜け出すこと、より多様な産業が生まれてくる基盤をつくること、また今後の超高齢化の課題に対応した政府の効率化と地域コミュニティの再建などの課題を考えると国のしくみを変えなければならないことは自明です。
そして、民主党も自民党も、中央から地方へというお題目は唱えていたし、霞ヶ関の官僚も取り組むべき課題として掲げていたのですが、しょせん、それぞれにとっての利益を第一にする限界があり、具体的な取り組みは遅々として進んで来なかったのが実態です。霞ヶ関がだしてきた道州制にいたっては、地方主権化どころか、中央から言ってみれば地方を取り仕切るために、大名を全国に配置して権力維持をはかろうとするお粗末なものでした。
現実には、地方主権化への具体的な取り組みや動きは、維新の会が象徴するように地方から起こってきました。それに既成政党がどう手を組もうかと模索しているのが現在です。
「中央から地方へ」という改革は、なにも手続きや法制度を変えるといった表面的な問題ではなく、権力の重心が変わることを意味しています。つまり、既成政党や官僚などの権力を奪って地方に移すことで、そこには表面的にも、また裏の部分でも、激しい権力をめぐる軋轢が起こってきます。民主主義が定着していない時代なら、それこそ戦闘を交え、戦争になるような問題です。
それほどの課題が、小泉改革や、民主党による政権交代ぐらいで実現できると考えるほうが、過去の歴史を考えれば不自然で、「改革」は幻想に過ぎないと言ってのけることは、現状を守れと言っているのと同じです。改革を担える主体がまだ登場してきていない、あるいは育っていないに過ぎません。
ほんとうの改革は、国民の積極的で継続的な参加があって育ってくるものでしょう。そのためにも、もっと大きな流れへの機運が生まれ育ってくることが必要です。いきなり政権交代と言うよりは、既成政党とも手を組みながら、国政への影響力を高め、ひとつの勢力として成長していこうという現在の維新の会の考え方や政治手法もありでしょう。
もうひとつは、維新の会、とくに橋下市長が「敵」を設定し、ひとつの切り口で攻撃を繰り返すワンフレーズ・ポリティックスの政治手法への嫌悪感がそれらの批判や懸念に混在していることに気づきます。評論家なら多くを語ればいいのでしょうし、また政治家同士でやりあう国会論戦なら多くを語ればいいのですが、市民や国民に向けてメッセージを発し、共感をつくりだしていくためには認められるべき方法です。
誰にむかって語りかけるのかで違いがでてきます。マスコミの評論家に向けてなら、そういった人びとが好むメッセージを長々と語ればいいのですが、市民や国民にむけて語るためには分かりやすさが求められます。しかし維新の会がそれに終わっていたならいまの高い支持も、既成政党への影響力もつくりだせなかったのではないかと感じます。それを言い出せば、アメリカの大統領選はまさに小泉元総理や橋下市長の政治手法そのもの、あるいはそれ以上かもしれません。しかも維新の会は、現実的でないとか机上の空論だと批判を浴びせられた、わかりづらい「大阪都」の構想を掲げつづけてきたことは無視できないことです。
批判や懸念を示す人たちが恐れているのはいったいなになのでしょうか。現実に広がってきている維新の会の旋風に、なぜ懸念をしめすのでしょうか。むしろそちらのほうが興味が湧いてきます。
いまの民主と自民の権力の座をめぐる競いあいで感じるのは、民主と自民の間の価値観や政策の違いよりも、互いの党内の違いのほうが大きく、しかも争点がどんどん細部に移り、互いの能力を主張するだけになってきています。ビジネスの世界では、同じ土俵上で、わずかな違いをめぐってシェアの争奪戦を繰り広げる状況と重なって見えてきます。
それは多くの場合、市場が求めるより高い価値の提供という本筋から次第に乖離しはじめ、その間隙を縫って新規参入が起こって来ることが多いのです。とくに工業化からデジタル革命、またグローバル化の大きな時代の転換で、そういったイノベーションを生み出さないシェア競争にはあまり意味がなくなって来ています。
政治も同じです。国民のニーズから離れ、権力闘争が自己目的化しはじめているように感じます。政治の行き詰まりです。しかも自民党が次の総選挙で大勝をしたとしても、それは敵失、民主党のオウンゴールがもたらす結果に過ぎず、国民のほんとうの支持を得ている状態では無いので、再び破綻することは目に見えています。
国民にむかってもっと語りかけ、国民の共感や支持を得る努力をもっとしてもらわなければ、政党の存在理由すら危うくなっていくと思います。他党の批判をしている場合でないと思うのですが、他党批判を繰り返しているほうが存在をアピールできるというのは、あまりにも近視眼的すぎます。
既成政党は、党内や国会の場で国民とはかけ離れた政争のゲームをやっている場合ではありません。それこそ、まだまだ国政では既成政党が現実的には政権を担当する勢力を持っているので、維新の会を批判する暇があるのなら、既成政党へのリクエストをもっと強く主張すべきではないかと強く感じます。