デフレの真因から見えてくる日本経済の大転換

倉本 圭造

今回は、「デフレの真因」という切り口で、今起こすべき「経済の質的転換」を考えてみたいと思っています。


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京都大学経済学部卒業後マッキンゼーで働く中でグローバリズムと日本社会の現実との矛盾に悩み、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートする。いわゆる「ブラック企業」やカルト宗教団体、ホストクラブ、肉体労働現場などに潜入して働き、今を生きる日本人の「リアリティ」を知るプロセスの後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中。
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・・・というプロフィールをご覧いただいてもわかる通り、私は一応「勉強」はそこそこ(あくまで”そこそこ”ですけど)できるキャラとして生きてきたつもりです。学部レベルですが経済学も学びました。

が、途中からわけわからない探求生活を始めて、お布施商法(それ自体には関わらなかったものの)で有名なカルト宗教団体の内実を知るために潜入してみたり、「その外見で(笑)」と友人に笑われながらもホストクラブでお客さんに市価の数倍の値段でドンペリのボトルを入れてもらったり・・・しているうちに、

需要と供給のバランスによって一点に均衡する価格

というような発想について、正統的な経済学のような、ある意味無邪気な前提を信じることができなくなってしまっている部分があります。

金融緩和でインフレ期待が生まれて需要が増える・・・そういうことがありえるのかどうか?または今の日本はどの程度「金融緩和されている」と言えるのか?・・・という議論については、(私なりの意見はあるものの)プロの方にお任せするべきだと思います。

ただ素朴にいつも「本当かな?」と思ってしまうのは、そうやって無理やり喚起された

「それほど欲しいもんでもないけど今使っちゃわないと損だから買う需要」というのは、本当に「意味のある確実な需要」と言えるのだろうか?

という疑問です。

「本当に欲しいものって何だ?」という探求を10年かけてやった結果生まれた「一点もの」な商品が次々と市場に還流して生まれた「需要」と、ただ「今使っちゃわないと損だから、それほど欲しいとも思わないけど使っちゃえ」と作り出された「需要」を、一切区別しないのが今の経済学なわけですが、はたしてそれでいいのだろうか?というのは一度考えてみるべきだと思います。

私は1978年生まれなので、いわゆる「バブル時代」のことはよく知らずに育ちました。ただ、大学時代に、「一回大学を出て入り直したかなり年上の後輩」という友人がいて、彼はバブル期に東京の大学にいて、学生ベンチャーのハシリのようなことをしていてお金もあったらしい。

彼は個人としてみると凄く音楽に造詣の深い趣味人であったにも関わらず、いざ恋愛となると「クリスマスにはどこどこのホテルを予約しないと話が始まらない」というような感じで(そのうち変化しましたが)、その「価値観」が、当時下宿していたアパートで恋人と同棲していて、クリスマスには近所のケーキ屋さんのケーキとKFCで自宅パーティ・・・というような世界観だった私には結構衝撃的でした。

東京じゃなくて京都だったから?かもしれない。学生時代限定でしょ?かもしれない。

もちろん私も、働き始めてからはそういう「オシャレなデート」もしましたが、基本的には、やたら長いメールを送り合ったりわざわざ相手の女性の子供時代に過ごした土地に行って色んな思い出話を聴いたり・・・といったオママゴトのようなデートの方に「意味」を感じる性向はずっと続いています。

こういう「風潮の変化」は、社会の色んな場所で見られる基本的な変化だと思います。

これだけ大きな「価値観の変化」があるのに、「デフレ」に関しては「純粋に貨幣的現象」と言ってしまっていいのだろうか?

日本においてデフレが顕著なのは、「今の市場に出てきがちな商品」に「飽きて」しまっている面が大きいのではないかと思います。

ある意味、左翼風の年配の方が「もう経済発展なんていらないんだよ」というような論を展開するときの、「追い立てられる争いじゃなくて”生きている意義”を感じたい」という気持ちに近いものが、「こたえられていない深いニーズ」として沈殿している。

だからこそ、「モノでなくモノゴトを売れ」「ストーリーのある商品を」と言ったような最近のビジネス書的な風潮を、「今の水準を圧倒的に超えて物凄く徹底していくような変化」こそが、このデフレの「真因」を解決する唯一の方法ではないかと私は考えています。それには「商品企画」といった部分だけでなく、経済のなかのあらゆる機能を、「働き手側の思い」の方から問い直すムーブメントが必要です。

おそらく、金融緩和論に人々の気持ちが集まりやすいのは、「金融緩和」でなければ、「規制緩和」か「財政支出」をしなくちゃいけない・・・という流れになってしまいがちだからだと思います。そうではなくて大事なのは、「本当に欲しいものってなんだ?」という、ある意味古い左翼の”実存主義”的なものを、どうやって「市場」に載せていくのか・・・という「風潮」の方なのだと思います。

「政府がやること」が明確に見える「金融緩和」「規制緩和」「財政支出」に比べて、「風潮」などというのはいかにも迂遠な感じがしますが、しかしその流れを起こしたい気持ちは、「供給側」にも「需要側」にも根強くあるように思います。現在「経済」自体に乗り気でなくなってしまっている層が多くいるのも、「個人の本当のニーズ」と「経済の前線」が乖離しすぎていることが原因であるように思っています。

グローバル経済の中での特異な優位を築くには、「タフネスや優秀性」を求める風潮だけではない、スティーブ・ジョブズが象徴していたような「らしさの追求イズム」というようなものが必要だというのは、誰しも納得していただけることだと思います。

しかし、今それを追求する動きはあまりに弱い。小手先のファッションではない、「10年間世間に踏みつけられ続けてもあえてやらずにはいられない」というような、「個人の奥底にあるもの」を、ちゃんと還流させていくフローをしっかり確保することが大事です。

私は、「現実の市場の厳しさ」と「個人の奥底のもの・・・というような発想のあまりに曖昧なこと」との間のギャップを、個人を時間をかけてエンパワーしていくことで、なんとか乗り越えようとする取り組みを行なっています。詳しくは拙著を読んでいただきたいのですが、5-10年かけることで、「普通にはない新しい展開」を起こすことができた事例も積み重なりつつあります。

今は、一部の成功したブランドを持つ企業以外では、悪徳商法やカルト宗教団体の形でしか噴出していない、「”高値付けを可能とするほどの意義”を感じられる消費」を創りだそうとする辛抱強いムーブメントを後押しすることが私の仕事だと思っています。そういう動きが同時多発的に大量に生まれることによってしか、この「デフレ」が根っこから解決されることはないと私は考えています。

ご興味をお持ちの方は、まず「出版社のサイトで著書の試し読み」をなさってください。ブログ一回分程度の文量で、「全体として有機的に噛み合う新しい経済の見方」の入り口にお連れできると思います。

倉本 圭造
経済思想家・元経営コンサルタント
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」