大阪府知事が「福島みずほ」になるとき

池田 信夫

産経新聞によれば、松井一郎大阪府知事は、大飯原発が再稼働しない場合の電気料金の値上げについて「反対(の意思表示)で橋下徹大阪市長と2人で関電前で座り込みをするしかない」と述べたそうだ。原発を全部止めて、値上げしないですむと思っているのだろうか。


上の図は関電の資料だが、昨年の火力燃料費は2010年より5000億円以上増え、今年はさらに4000億円増える見通しだ。9000億円もコストが増えるのに、値上げしなかったら関電の経営は破綻するだろう。今年の燃料費は2010年の2倍以上になるので、電気代が5割ぐらい上がっても不思議ではない。総括原価主義では、コストはすべて電気代に転嫁できるからだ。

それなのに関電のコストを倍増させておいて「値上げするな」という松井知事は、関電が打ち出の小槌でも持っていると思っているのだろうか。このような福島みずほ症候群は、珍しいものではない。きれいごとを言って、責任は他人にとらせようというフリーライダーは、すべての日本人の心の中に住んでいるのだ。

そういう日本の伝統を丸山眞男は「動機の純粋性」と呼んだ。日本人が倫理の基準にするのは、その行動が何らかの客観的基準に照らして正しいかどうかではなく、その動機が純粋かどうかである。それを記紀などではキヨキココロと呼び、これと対立する邪悪な動機をキタナキココロと呼んだ。ここで問われているのは行動の結果ではなく、そのもとになる感情である。

このような倫理観は日本に特有のものだ、と丸山はいう。たとえば中国では、儒教の「天道」とか「天理」といった形而上学的な概念で倫理が決まり、そういう規則に従う行動が正しいとされる。これに対して日本ではそういう超越的な価値体系がないため、善悪の基準は美的・感覚的なものになるのだ。

反原発派の言説も、こうした日本的伝統を受け継いでいる。「原子力村」や「御用学者」はキタナキココロだからすべて悪であり、それを批判する人はキヨキココロだから、科学的に正しいかどうかは問われない。京大に40年も勤務して学術論文を1本も書けない万年助手も「キヨキココロのゆえに迫害された」として英雄になり、内容を問わないで「東大話法」がどうとかいう下らない話をくり返す。

こうした福島みずほ的な甘えの最たるものが日教組である。「子供のため」というキヨキココロですべての怠慢や非効率を正当化するフリーライダーこそ、橋下市長や松井知事が闘ってきたものではないのか。「大阪には許認可権はないから言いたいことを言っていればいい」というのでは、彼らの批判する日教組と同じだ。