失われた日本のコモンロー

池田 信夫

法的根拠なく1年以上も政府が原発の運転を妨害し、電力会社に6兆円以上の損害を強要する日本の現状は、とても先進国では考えられない無法状態だが、日本人が法の支配を知らなかったわけではない。1232年につくられた貞永式目(関東御成敗式目)はマグナカルタとほぼ同時で、世界でもっとも早いコモンローの成文化である。これを日本における法の支配として高く評価する点では、保守の山本七平と革新の丸山眞男が一致している。


山本は本書で、貞永式目の発想は北条泰時の深く帰依した明恵の影響だとしている。明恵は高山寺の僧侶で、今ではあまり知られていないが、汎神論的な自然法思想をもち、社会秩序も生命のような自生的秩序と見ていた。泰時は明恵の影響を受けて、当時の武士の社会に受け継がれていたコモンローを51ヶ条の法典として編集したのだという。

しかしマグナカルタと違って、貞永式目を起草したのは「武蔵守・北条泰時」であり、現代でいえば東京都知事が議会の議決も経ないで決めた個人的ルール集である。それが権威をもったのは、武家社会に定着していた慣習法を明文化したからだ。泰時もいうように、難解な漢文で書かれた律令制度を知る者は「千人万人中にひとりだにもありがたく」空文化していたが、教養のない武士でも読める平易な文章で書かれた貞永式目は、実用的な紛争解決のルールブックとして機能したのだ。

特に注目されるのは、土地の所有権を規定して所領をめぐる争いを解決する基準を示していることだ。もちろんこれは現代のような個人の所有権ではないが、土地が誰に所属するかを決める民事訴訟の手続きまで定めた法典は、当時としては世界でもっとも進んだものだ。相続についても明示的なルールを定め、世界で初めて女性の相続権を認めている。

しかし貞永式目は、イギリスのコモンローのように社会全体に共有される規範にはならなかった。その原因を丸山眞男は1965年の講義録で「鎌倉幕府が解体して下克上的なカオスが広がり、戦国大名の武力支配の中で法的な規範意識が失われた」と説明した。貞永式目そのものは武家の基本法として江戸時代まで残るが、幕藩体制のもとでは各藩のローカルな支配権が強いため、地域を超える普遍的な規範意識が育たなかった。

そして法律がこうしたparticularisticな価値を超えられない状況のまま、自然法的な秩序とまったく無関係な西洋の大陸法が明治時代に輸入され、日常生活と法のギャップが非常に大きくなった。その結果、意見の違いを調停する実用的なルールがないため、現実のガバナンスには貞永式目以前の「古層」的なしくみが残り、村の寄り合いのような全員一致で意思決定が行なわれる。

丸山は貞永式目を「古層」を超える普遍的価値の定式化とし、山本は「日本的革命」と呼んで高く評価したが、その革命は未完に終わった。それは日本人の知的水準が低いためではなく、明治時代に自前のコモンローを発展させないで実態に合わない大陸法を輸入したことが原因だ。おかげで行き当たりばったりに「コンセンサス」やら「コンプライアンス」やらを求めるため、何も決まらない。

日本は世界でもっとも進んだlawをもっていたのに、それを最悪のlegislationで上書きしてしまったため、いまだに実質的な無法状態が続いている。それが政治・経済の行き詰まりの根本原因だが、政治家も官僚も問題の所在さえ理解していない。丸山もいったように「古層」を克服するには、その存在を認識することが出発点だが、日本人はまだその出発点にも立っていないのである。