絶対的に正しい英語なんて存在しない:世界に飛び出して、経験してみる

松岡 祐紀

日本人はその真面目な性格からか英語を話すときは「ネイティブスピーカーのような発音」をしないと思い込んでいる人たちが多いらしいが、世界的に見てもそんな人種は稀で通常、各国それぞれの訛りで英語を話している。

それに、そもそも「ネイティブスピーカーのような発音」とは一体なんなのか?

アメリカひとつとっても、東海岸と西海岸の英語は違うし、訛りの強い南部に行ったらほとんどの外国人は満足に英語でコミュニケーションは取れないだろう。そのほかにもオーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人、それにイギリス人はみんなネイティブスピーカーだ。

自分が住んでいたスコットランドの首都エディンバラの人たちは、そもそも自分たちも結構訛っているのに、地方都市であるアバディーンに行ったら「あいつらの英語は訛りが酷すぎて、何言っているのか分からない」と言っていたし、ロンドンの人たちはマンチェスターやリバプールの人たちの英語を下品だと言って、毛嫌いしていた。(ちなみにNYに滞在したときに、ラジオで当時流行っていたオアシスのギャラガー兄弟のひどく訛った英語での痴話喧嘩を流したあとに、DJが「彼らは英語は話せないけど、歌は歌える」と言ったのが印象に残っている)


日本人の英語下手の原因は発音教育の軽視にある。日本の発音教育改革に挑むイフ学語学院の「中野メソッド」

まず、このなかで気になったのが、「国際会議では発音が上手い奴がスターになれる。発音が上手いだけで華になれる」という発言だ。いくつかの国際学会などにも参加したことがあるが、アメリカ人などはよく「プレゼンがうまいだけで、中身がない」と酷評されるし、発音さえ良ければスターになれるのであれば、ネイティブスピーカー誰でもOKということになってしまう。(AKBのほうがまだスターになれる難易度がはるかに高い)

日本にいる外国人を二種類に分けて考えてみる。

1. 日本語の発音がすごく上手いけど、話がつまらない外国人。

2. 日本語の発音は下手だけど、話していて楽しい外国人。

圧倒的に後者のほうが好感が持てる。ようは「コンテンツ勝負」であって、そとみはそれほど問題にされない。特に国際社会では英語は話せて当たり前なので、発音が上手かろうがたいしたプラスにならない。それよりは人にないものを持っている人たちが生き残っていく。(世界的指揮者である小澤征爾氏は自他共に「英語の発音が苦手」と認めているが、それが彼の名声を傷つけることは一切ない。それを上回る圧倒的なコンテンツを持っているからだ)

日本人が英語を苦手とされるのは、発音以前の基本的なインプット(特に語彙力、文法)が圧倒的に不足しているからだ。

発音はいいに越したことはないが、しかしそれ以前にクリアすべき問題が多々ある。ある程度英語が話せるようになってから発音練習を始めても遅くはない。(あまり早く始めると、発音を気にするあまり、英語が話せなくなる弊害が大きい)

またコミュニケーションは常に双方向であって、絶対的なものではない。相手や場所、それにこちらのコンテンツに大きく左右される。(会議、レストラン、騒音溢れるのバーで話すときでは、それぞれ要求されるスキルが違ってくる)

英語ありきではなく、自分自身の中身がまず問題であり、それを外国人に適切に伝える手段として英語が存在する。こちらのコンテンツが魅力的であれば、相手はこちらのひどい英語でも付き合ってくれるし、逆にそれほどコンテンツに魅力がなければきちんと継続的に英語を勉強して、最低限のコミュニケーションを成立出来るようにするべきだ。

いずれにせよ絶対に通用する英語なんて、世の中には存在しないし、絶対的に正しい英語の発音なんてものも存在しない。いつまでもそんなことを議論していないで、とっとと世界に飛び出して世界を経験したほうが身のためだ。

株式会社ワンズワード 松岡祐紀
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