日本人は「過去の栄光」を忘れて中韓から学べ

松本 徹三

かつて日本からの輸入商品が米国市場に現れた時、米国人は当初は「安かろう、悪かろう」という眼でこういう商品を見ていた。しばらくして日本から来る商品の品質が意外によく、欧米製を凌駕するものも多いことが分かると、一部の人達は率直にそれを評価し、「品質にこだわるのは日本人の美点で、品質では日本製がベストかもしれない」と考えるに至ったが、それでも多くの人達は、自らのプライドにこだわり、「所詮は人真似に過ぎない」「不公正なやり方で政府(MITI)が日本企業を保護している故の競争力だ」等と言っていた。


東芝の子会社が単純な不注意から「高性能の音の出ないスクリュー」をソ連に輸出した時には、これがソ連海軍の原子力潜水艦に利用されて探知が難しくなることを懸念した米国の一部の議員達は、「日本は金儲けの為なら自由陣営の安全保障のことも考えない」として、キャピトルヒルの前で東芝製のカセットデッキをハンマーで叩き潰すという恥ずかしい暴挙にまで及んだ。その挙句、国防省への一括納入が決まっていたラップトップPCまでキャンセルの憂き目に会った。しかし、何年たっても、米国の普通の製造工場が外国の工場に対する競争力を回復することはなく、結局は日本製が韓国製、台湾製に変わり、今は急速に中国製に置き換わっているだけだ。

急速に輸出を伸ばした日本企業は、MITIの世話になった等とまったく考えておらず、米国人の思い違いを笑っていた。現実にMITIがやった最大のことは、外国企業から未熟な日本産業を守る為の保護政策だった、しかし、これは、外国政府の大きな不信を買った上に、日本企業に「特殊な規格を作ることで外国企業の進出を難しくする」という安易な道を歩ませ、結局は日本企業をガラパゴス化させて国際競争力を失わせる元凶となったに過ぎなかった。

国のバックアップが最も求められる大型のプランと輸出案件などでは、「こういう時こそ納税者である民間企業を助けて、政府の役割を誇示するチャンス」と考えて、国のトップが積極的に動く欧米諸国に比べ、「官尊民卑」が身についてしまっていた日本の政府機関は、民間企業が全てのお膳立てをして「失注する(面子を失う)」恐れが少くなったことが分かるまでは、決して表面に立とうとはしなかった。

さて、時は巡り、韓中を筆頭に発展途上国といわれてきた国々の産業の競争力が日本を凌ぎつつある現時点では、状況はどうなったあろうか? 残念ながら、多くの日本人がかつての米国人とまったく同じ感覚で「日本に追いつき追い越しつつある国々」のことを見ているように思える。

韓国企業の躍進を横目に見ると、「かつては日本の技術者がアルバイトで週末に韓国に行き、色々と教えてやったのだ」といった懐旧談に逃げてしまう。中国企業については、「労賃が滅茶苦茶に安いのだから、値段では勝てないのが当然」「品質管理がいい加減で、所詮は信用できない」と負け惜しみを言う。「韓国ウォンも人民元も安いのに、日本の円は政府の無策のために高止まりしてしまっている」として、国に責任を持っていくのも、かつての米国人と同じだ。

超精密加工を必要する分野や、高度の材料工学を駆使している分野での日本の競争力は、今なお充分に強いし、最後まで日本のお家芸として残る可能性も高い。しかし、「こういうものこそ本当の産業であり、ソフトウェアなどに依存するよなものは産業の主流ではない」という人達(特に中高年の人達に多い)がいるのを見ると、私はとても不安になる。

強い分野は大いに誇り、最後まで高収益のトッププレイヤーであり続けることを目標とするべきだが、こういった分野が全産業に占める比重は時代とともにどんどん小さくなってなっている事を理解するべきだ。まして況や、産業には貴賎などあるべくもないのだから、「本当の産業」などという情緒的で懐旧的な言辞は弄するべきではない。今や、高度なシステム開発の70%以上がソフトウェア開発であることを、こういう人達は知らなければならない。

日本企業には、もはや意味のない負け惜しみを言っている余裕はないはずだ。しかし、負け犬根性を身につけてしまって、保護された国内市場に引き篭もってしまおうとするのはもっと困る。日本企業が先ずやるべきことは、率直に中韓企業の良いところを見つけ出し、これに学ぼうとする姿勢を身につけることだ。

このような姿勢を持つことによって、初めて日本人は自らの「公正さ」や「懐の広さ」を誇ることが出来るのであって、何事によらず先入観を持ち、根拠のない優越意識で相手を見下すような人達がいることは、日本人として恥ずかしいだけでなく、日本の将来を危うくするとさえ思う。

私が見るところでは、日本企業と日本人が、中韓から見習わねばならないのは下記の三点だ。

  1. 経営者の発想の大胆さと実行力
  2. 「よりよい明日」を信じる若い人達の「前向き」な姿勢
  3. 教育に対する思い入れの強さと実行力

日本人に限らず人間は誰でもそうなのだが、自分が優れていて相手が劣っているところよく見える。しかし、その逆になっているところは気がつかない事が多い。

私には最近、無錫で世界最大の太陽光発電パネルの製造工場を見学する機会があった。出発前に色々な日本人から中国メーカーの問題点について聞いていたから、それなりに用心深く種々のプロセスをチェックし、意地悪な質問もしたが、少なくとも工程の自動化と品質管理体制については、この工場は世界のトップクラスにあると考えてよいと思った。

私にアドバイスしてくれた日本人は、数年前の彼等の状態を見てコメントしてくれたのだと思うが、その間に彼等も彼等なりにそれらの問題点を認識し、大規模な投資でこの問題点を克服したと考えてよいのではないかと思う。国でも企業でも、一旦進化の流れに乗るの、比較的短時日のうちに、思いもかけぬ程の進化を遂げる事を我々は知らなければならない。

中国については、私にはいつも思い起こす事が一つある。二十年も前に伊藤忠で部長していた頃、或る案件に関連して現地で交渉しなければならない仕事が出来た。出張前に中国貿易のベテランに色々アドバイスを求めたところ、「酒が飲めねば中国では仕事はできないぞ。乾杯(カンペイ)と言われたら、必ず全部飲み干さなければならない」と言われた。しかし、実際には、案に相違して交渉の相手はアメリカ帰りはの若手の経営幹部で、全てビジネスライク、夕食の席でも仕事の話が主で、酒などは一杯か二杯口にしただけだった。この時、「世界はどんどん変わっていくのだから、誤った先入観を持つくらいなら、何も知らない方がむしろ良い」とつくづく思った。

今でも一般の多くの日本人は、中国企業は安い労賃を利用して急成長しているだけと考えているようだが、実際には、彼等の恐るべきところは、むしろ「経営者の大胆な決断による先行投資」だと考えた方が良さそうだ。大規模な生産設備をもつ会社は簡単には潰せず、市場が激変しても国や周りが支援して、生き残れる可能性が強い。その間に中小の会社はバタバタ潰れるから、市場が回復すれば、これらの規模の利益を持った会社が圧倒的な力を持つに至る。

これに対し、現在の日本の経営者は、元々社内のトーナメント戦を勝ち抜いて来た人達が多い。次の課長、次の部長、次の役員、次の社長を選ぶ過程では、あまりに大胆な発想をする人物は敬遠され、どうしても無難で安定性のある人物が選ばれるケースが多くなる。こうして選ばれた人達が次の指導者を選ぶので、大企業であればある程、経営者が段々と小粒になる事は防ぎ得ない。これで本当に彼等と互角に戦っていけるのだろうか?

社員もそうだ。今や世界をリードする通信システムメーカーの華為は、毎年大量のソフトウェアエンジニアを採用するが、採用条件は30歳定年だと聞いたことがある。実際に採用された若い人に「不安はないのか」と聞いてみたところ、「華為のような世界的な大企業に10年近くも勤めて経験を積んだら、後は自分の実力でやっていける。不安などにとらわれていたら、機会は得られない」と答えて平然としていた。

華為の競争相手である中興(ZTE)も負けてはおらず、毎年1000人を超える博士級の研究者を採用しているという。社内の研修にも力をいれているようだ。因みに、彼等のショウルームを見学した時には、若い人がかなり流暢な英語で全て説明してくれたので、海外に住んだ経験があるのかと聞いてみたが、この青年は屈託なく首を降り、全てビデオ教材と社内研修だけで身につけたと言っていた。

結論を言おう。

日本企業と日本人が今やるべき事は、先ずは当面のライバルである中韓企業のやり方から、何か学ぶべきものがないかどうかを探す事だ。勿論是々非々で考えればよく、彼等が勘違いしている事や、まだ遅れている事、自分達の方が優れている事、等々については、ただ黙って見過ごしておけばよいだけの事だ。

尤も、企業については、こんな事は、言われなくてもいつかはするだろう。多くの企業は、こんな事すらやれないのであれば、とても生き残ってはいけない筈だからだ。

しかし、国は違う。特に考えなければならないのは、大学教育のあり方だ。若者達の姿勢につても、注文をつけたいところは多々あるが、教育や社会のあり方が今のままだと、注文をつけるのにも気が引けてしまう。

「留学する価値のある大学」という事で世界ランキングをつけると、最近は日本の大学の凋落と中韓の一部の大学の躍進が著しいという。考えてみれば、これは何も驚くに値しない。

これらの中韓の大学は、自らの使命を「世界で活躍出来るビジネスマンや研究開発者を育てる事」と明確に意識し、その目的の為に全てを合理的に運営している。言語についても、「英語が国際語である事」を率直に認め、全ての授業を英語で行っている。

これに対し、日本では、大学の方針を決める教授会のメンバーは概ね純粋培養された高齢の方々で、海外の状況にも必ずしも詳しくなく、産業の競争力についての危機感もない。何よりも自分達が長年やってきた授業のやり方を変えるのには全く気が進まず、従って全ての変革は先送りされる傾向があるようだ。だから、何を言っても、先ずは「教育とはそんなものではない」という難しい講釈が始まり、結局は何も変わらないのだ。

教育が変われば若者達の姿勢が変わる。若者達が変われば社会が変わる。小沢一郎さん達は「国民の生活が第一」というが、日本の社会がいつまでも「もたれあい体質」で、産業が国際競争力を失えば、「国民の生活」などは支えられるべくもない。先ずは出来るところから始めるべきだと、強く思う。