子どもたちに正しく「競争」を体験させ教えないといじめもなくならない

大西 宏

教育に市場原理に持ち込むことを嫌う人たちがいます。きっと、弱い立場の人が、むきだしのエゴイズムの犠牲になる弱肉強食の暴力的な「競争」の世界となり、教育の場が荒むことを恐れてのことでしょう。だから教育の場には競争原理を入れてはいけないという主張になってきます。子どもたちを大人の暴力から守るべきなのだと。さらに学校でのいじめも、社会の「競争」の思想が持ち込まれた結果起こったとする考えです。


しかし、真逆だと思います。子ども社会でも自然発生的に起こってくる競争に向きあわなかったこと、正しく競争させる教育を行なわなかったことが背景となり、また学校、教育委員会、文部科学省が、縦のムラ社会、自分たちの立場を守ろうとしてきたことが、いじめの現実に立ち向かわず、犯罪にエスカレートするまで放置し、子どもを守らなかったことが、被害を受けた子どもを自殺にまで追いこんでしまったのです。

競争を成熟した社会を阻害する悪とみなす考えによれば、自己利益よりも共の福利を優先的に配慮する「大人」を育て、「いじめ」が行われたときに、黙って立ち上がって「やめなさい。それは人間として恥ずかしいふるまいだ」と言える若者が現れることを待つしかないということですが、そういう人材を育てることは望まれしいとしても、今起こっているいじめから子どもたちを守ることはできません。
いじめについての続き (内田樹の研究室) :

現実的には、いじめ対策を強化、とくに加害者に対する教育指導を徹底することでしょうが、現在の学校、教育委員会、文部科学省にいじめを防ぐ能力がないとすれば、東京都方式のようにいじめ問題に対処する組織を強化するか、すくなくとも子どもや両親は、被害から逃れる権利を行使できるようにする対策をとることが急がれます。

しかし、もう一方では競争と共生は対立したものだとする理想主義あるいは社会主義的な考え方が教育現場にもあるとすれば、それを改めない限り、子どもたちに潜んでいるいじめへの誘惑を抑えることはできないとも感じます。なぜなら正しく競い合うことを教えられないために、子供たちが本能的に持っているむきだしの残酷な競争本能にゆだねてしまうことになってしまうからです。

むしろ、子供たちに正しく競争をすることを教える、正しく競争を体験させることがむしろ成熟した社会を生みだすのではないでしょうか。

健全な競争が生まれるために大切なのは、きちんとしたルールのもとに公正に行なわれなければならないことです。競争を悪だとしてしまうと、よりよいルールをつくること、また公正さを保つ意識が育ちません。

スポーツでも、ゲーム中は激しく争っても、ルールがあるから危険なプレイを防ぎ、それこそゲームが終われば互いを健闘しあう「ノーサイド」の精神も生まれてきます。

しかも、ビジネスを経験したことのない人には競争は弱肉強食として映るのかもしれませんが、それほど単純なものではありません。競争にはいくつもの違う顔もあります。むしろ今日のビジネス社会では、競争の方法は多様であり、強者は強者の競争の方法、弱者は弱者の競争のしかたがあることを見出しています。

さらに競争社会は、うまく競争から逃れる知恵をもつことを促すようにもなってきています。競争から逃れるために他が持っていない独自性を生みだす努力をも促すのです。それが新しい市場を生みだすイノベーションを起こすことにつながり、また製品やサービスの多様性をもたらす結果ともなってきました。

逆に、競争を悪とする思想は共産主義が典型かもしれませんが、結局は経済も社会をも停滞させ、官僚が権力と利権を独占し、社会の腐敗をも生み出すこととなった現実があります。

競争には弱肉競争の側面もありますが、それも、古い産業から新しい産業へと産業の新陳代謝を促しているのです。教育現場から競争を排除してきた結果、技術も社会も大きく変わってきたにもかかわらず、教育は先生の個人的な能力に委ねられたままで、いまだに日本の教育現場には大きなイノベーションが生まれていません。

学校は社会から断絶されているために、一定のルールのもとに競争を体験させ、公正に競い合う素養を子どもたちに教えることが可能です。競争を忌み嫌うのではなく、正しく競争を教えることが、子どもたちの個性をも育み、異質を認める文化をも育てるのです。なにも勉強だけが全てではないことも学ぶはずです。

不自然に競争を排除することが本来は個性を持っている子どもたちを均質化させ、異質を認めないムラ社会を生み出し、そこからはみ出した子どもをいじめる構造を生み出してきます。

本能的に持っている競争心を削ぐことではなく、公正に競争することを教える、競争の場を選らび、自分の個性にあった居場所をそれぞれの子どもたちが見つけ出す知恵を育むことのほうがはるかに共生社会への道をも切り拓くのではないでしょうか。