『ケインズはこう言った-迷走日本を古典で斬る』
NHK出版新書、2012年8月刊
★★☆☆☆
ヒックス以降の定式化に基づいて教科書化された理論とケインズの原像は、明らかに異なる。それゆえ、折にふれて「本当のケインズは、・・・」という議論がされることになる。ケインズの原典を何も読んだことがなく、経済学の教科書でしか「ケインズ経済学」を勉強したことがない人が、ケインズ経済学を語ったり、批判したりするのを見聞すると、ケインズが好みで、真面目に『一般理論』も読んだ人は大いに不満に感じることになる。それで、「それは違う。本当にケインズが主張していたことは、・・・」という話になるわけである。
そうした議論を最初に本格的に展開したのは、A・レーヨンフーヴッド(Axel Leijonhufvud)の『ケインジアンの経済学とケインズの経済学』である(因みにレーヨンフーヴッドに関する私の個人的お薦めは、The Wicksell Connectionとタイトルされた論文(pdfファイル)である)。この本を大学院生時代に読んだときには、勉強になった。といっても、本当にケインズが主張していたことが分かったからではない。「ケインズの経済学」とされるものの論理構造が明解になり、それが興味深いと思われたからである(私の理解の概略は、末尾の「付記」に記した)。
私は、「誰が」言ったかにはあまり関心がない。清廉潔癖な人が言ったことであっても、内容が間違っているなら間違いだし、どこからか金をもらっている堕落した人間が言ったことであっても、内容が正しければ正しいということだ。それにケインズが好きなわけでもないので、ケインズの原典も、『一般理論』を別にして真面目には読んでいない。したがって、私が本当のケインズを理解しているとは全く思わないが、この本も、折にふれて繰り返される「本当のケインズは、・・・」という議論の1つであり、それ以上でもそれ以下でもないという感想をもった。
新書という分量から当然ではあるが、スキデルスキーのように緻密な文献考証によってケインズの実像を明らかにしたものでもなければ、レーヨンフーヴッドにように論理構造を徹底的に明晰化しようとしているわけでもない。まあ「私のケインズ解釈はこうです」ということを述べている過ぎない。それでも、教科書でしかケインズ経済学を勉強したことがない者が読者として想定されているのであれば、議論として意味があるということになるのかもしれない(第2章から第5章の部分)。
しかし、ケインズのマシン(政策)よりもフィロソフィー(思考)を受け継ぐべきとして、現代日本の直面する問題に関して論じている部分は、「高橋さん、いつからそんなレトロなマル経のドグマに囚われちゃったの?」という感じで、全く賛同できない(第1章と第6章)。
雇用の2極化が進行しており、きわめて劣悪な雇用条件に置かれている層が増大しているというのは確かな話だが、その原因が「労働者を買い叩き、雇用者を搾り取ることで利潤を確保しようとする資本の論理」にあるというのは、議論としてあまりに「お手軽」にすぎませんか。高橋さんにとっては、グローバル化は口実だったり、タテマエに過ぎないようだけれども、身の回りにメイド・イン・チャイナや、メイド・イン・ベトナムあるいはカンボジアと記された消費財があふれているという現実はみなくていいのだろうか。
新興国から労働集約的な財を輸入することは、間接的に労働力を輸入しているに等しく、それらの国々との間で実質賃金の均等化(日本からみると引き下げ)の圧力が働くことになる。あるいは、情報技術革新の進展は、これまで中間層が従事していた事務処理的な仕事をどんどんと消滅させていっている。本書には「新興国との競合」、「IT化」といった表現は一度も登場しないけれども、そうしたことに全くふれずに現代の日本が直面する問題に処方箋が書けるとは、私には考えがたいことである。
経済学者は現実をみなければならないというのは、もって自戒の念としたい。しかし、日本経済は閉鎖経済でもなければ、19世紀と同様の技術的条件の下にあるわけではない。1990年以前とも、既に大きく異なった環境下に置かれている。「”現実”を見ようとしない経済学者たち」というのは、本当は誰のことなのだろうか。古い知人の命を削って書かれた書物に対する評としては、冷淡すぎるかもしれないが、率直な思いである。
[付記]
私の理解する「ケインズの経済学」の論理構造は、次のようなものである。
(完全雇用水準に対応する)貯蓄と投資から決まるのは、自然利子率である。他方、市場利子率は債券流通市場(資産市場)で決まる。(予想インフレ率を与件として)マーケットで決まる市場利子率(下の実質金利)が自然利子率よりも高いと、総需要の不足が生じ、非自発的失業が発生することになる。このとき、貨幣賃金の引き下げは問題の解決にならない。貨幣賃金の低下はむしろ予想インフレ率の低下を招き、自然利子率と現下の市場実質金利との乖離を拡大してしまうことになり、問題をむしろ悪化させる。
問題の解決のためには、資産市場における金利生活者の貪欲によって高止まりしている市場利子率を低下させ、現下の実質金利と自然利子率の乖離を是正することが必要である。国債を買い上げて貨幣を供給することで市場利子率を下げられれば、それでよい。しかし、貨幣需要がきわめて弾力的になっていて市場利子率の低下につながらなかったり、企業家のアニマルスピリッツが萎縮していて、その結果、自然利子率がひどく低迷してるときには、別の方策(財政刺激など)を考えなければならない。
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池尾 和人@kazikeo