「バリケード」としての法の支配

池田 信夫

アゴラの書評で取り上げた仲正氏の本は、丸山眞男論としてはお粗末だが、「丸山をネタにした雑談」としてはおもしろく読める。中でも重要なのは、法の支配についての丸山の言及である。

ヨーロッパにおいて大陸の合理主義が絶対君主による政治的集中(官僚制の形成)を前提とした法治国家(Rechtsstaat)の形成と相即しているとすれば、イギリスの経験論には地方自治の基盤の上に自主的集団の論理として培養された「法の支配」(rule of law)の伝統が照応している。(『日本の思想』pp.37-8)


一般には法治国家と法の支配は同義に使われるが、丸山は前者を大陸法の系譜、後者を英米法の系譜の概念として区別している。法学プロパーでは、前者を法治主義と呼ぶことが多いようだ。これは近代より古くからある概念で、中国では皇帝の属人的な意思決定に依存する徳治主義に対して実定法を重視する韓非子などの思想をさす。

儒教は皇帝の法的権力を前提しているため、規範的・契約的な性格が強いが、日本には法治主義も法の支配もなかったため、明治国家は権威と報恩の関係にもとづく家産官僚制だった、と丸山は述べている。これは天皇が私的な「家」として国家を経営する思想で、臣下は天皇を「補弼」する役割しかないので責任を負わず、天皇は実質的な意思決定を行なわないので責任を負うことができない無責任の体系が生まれてしまう。

おもしろいのは、法の支配が国家権力の恣意的な運用から国民を守る社会的なバリケードだという指摘である。西洋の近代化の最大の障害となったのは貴族の特権だが、日本では貴族がいなかったので華族制度を創設しなければならなかった。割拠的で弱体化した各藩の下にはタコツボ的な村落共同体しかなかったので、「制度的近代化は、無人の野を行くように進展した」。ここで国民を守るのは法律ではなく、お上の温情しかない。

いま電力業界で起こっているのは、法の支配の崩壊である。菅前首相のひとことで3000億円以上の損失を強いられている中部電力は、その企業価値を守るすべがない。浜岡原発を止めるとき「安全対策が終わったら再稼働してよい」という確認書を海江田前経産相と交わした、と中部電力は主張しているが、枝野経産相は「そういう引き継ぎは受けていない」。文書の存在を確認する訴訟を起こせば勝てるかも知れないが、その報復として経産省はいくらでも再稼働を遅らせることができる。

他の電力会社も、いつ原発が再稼働できるのか、どういう基準を満たすべきなのかさえわからないまま、無期限の停止を続けている。枝野氏は「9月に原子力規制委員会ができるまで再稼働は許さない」というが、規制委員会が新しい安全基準を決めるのはいつになるかわからない。この論理を適用すれば、建築基準法を改正するときは、古い家はすべて新基準に建て替えないと住んではいけないことになる。彼は弁護士のくせに、法が改正されるまでは現行法を適用するという近代法の常識さえ知らないのだろうか。

民主党政権では、国民や企業を国家権力から守るバリケードとしての法の支配が失われてしまったのだ。その結果、あと数年も今の状態が続けば中部電力は債務超過になる。それを避けるには、電気代を大幅に引き上げるしかない。そのときトヨタやスズキは日本に工場を残すだろうか。権利を守るバリケードが失われたコストを負担するのは、すべての国民である。