シェアハウスで考えたノマドワーカーの姿~ノマドって新しいの?

新 清士

26日夜に @kimura さんが主催している秋葉原からほど近い「浅草橋はなれ」というシェアハウスに遊びに行かせてもらった。上は40代のいわゆるノマド的な働き方をされている方から、下は20代の大学院生までと、6人余りの様々な境遇の方が住まれている。遊びに行っている最中も共同スペースに、いろんな人が出入りして、自由に雑談しているのがとても楽しく、気がついたら終電近くになっているという状態になっていた。ただ、そこでお話をしながら最近やたらと喧伝される「ノマド」ってめずらしいことか? という疑問がわいてきた。単に、今の経済的社会的な環境要因が生みだしているという印象を強めた。

新しい(?)シェアハウスの考え方


シェアハウス「浅草橋はなれ」は、最近、広がりつつある考え方で、コンセプトを立てて、一軒家やマンションを借り、共感できる人が、緩やかな人間関係を結びながら共同で住むという形で運営されている。一般的な企業に勤めている人もいるし、いわゆるノマド的にフリーランスで仕事をしている人もいる。

ただ、シェアハウスにもいろいろな形態があり、値段を下げてとにかく寝床であればいいという低価格で提供しているところ(ざっくりゲストハウスと呼ばれるらしい)から、新しいライフスタイルを体現しているものだ主張しているところまで、いろんなバリエーションがあるようだ。「浅草橋はなれ」は、そういう中でも、参加している人の意識が高いようだ。驚いたのは、共同スペースが恐ろしいほどきれいで、何とも住みやすそうに感じられた。@kimura さんによると部屋のきれいさは、「意識の高さとかなり相関関係があるのでは」ということだった。

ノマドワーカーって本当に新しいことなのだろうか?

最近、「ノマド論争」なるものが流行っているが、私にとっては、ピンとこない議論だなあと思っている。何年も前から、フリーランスの物書きで、自宅と煮詰まったら近くのファミレスでドリンクバーを注文して数時間仕事をしたり(迷惑を掛けないように混んでいる時間は避ける)、外出先で時間が余っているときに、長居しても文句を言われない喫茶店のルノアールでちょっとした原稿を書いたりするのは、いつものことだ。その状態で、働き始めてもう10年になる。

「ノマドワーカー」なる場所に依存しないで仕事をするのは、私にとっては日常であり、長年連載しているもう数年書いている媒体でも、担当編集者に一度も会ったことがないということもある。大概のことは、メールと電話ですませてしまえるし、先方もこちらの書く文章には、信頼して頂いているので、事前にテーマ設定を行ってしまえば、後はよほどのことがない限り、ボツになったりすることはない。(原稿が遅れて迷惑を掛けることはしょっちゅうあるけど)

ノマド論争では、「企業がいらない」なんて極端な議論も出ているようだけど、先方の企業がなければ,私の仕事は成り立たないし、組織というのは、個人ではできないことを成し遂げるため効率の良い組織であることは今も変わっていないと思う。それらのマネジメント問題は別の話。

シェアハウスの増加は近年の社会経済的要因が大きい

@kimura さんの話を聞いていて、もっともだと思ったのは、近年、こうしたシェアハウスが広がっているのは、新しいライフスタイルというよりも、経済的な要因が大きいということだ。日本経済の状況の悪化は、正社員の仕事量を増やすことになり、サービス残業が当然となっている。そのため、都内中心部の企業に勤めている人にとって、長時間通勤は相当負担になっている。とても日野市や立川市の東京郊外(とはいえ、比較的近郊)に住んでいる人でも、通勤が物理的に負担になっている。やっと家に戻っても、すぐに朝が来てまた出勤しなければならない。自由時間がない。

都内でマンションやアパートを借りるとなると、ちょっとした物件でもワンルーム1部屋7~8万円もする相場観が当たり前で、近年の賃金下落が進んだことで大きな負担になっている。一方で、23区内には、二世帯住宅を想定していた住宅も多く建てられている。ただ、そういう物件は、年々必要なくなっている。ところが、家が広すぎるため、貸し手を探した場合、当然、そうした住宅の借り手は多くない。二世帯で一軒家を借りたりすることはほとんどないからだ。それは、家主にとっても、深刻な問題になる。

そのため、シェアハウスにして貸し出すことには、運営者さえしっかりしていれば、家主の抵抗感は下がってきている。一方で、借りる方は、共同で借りることによって、一人当たりの居住コストを下げている。昔で言えば、ちょっと意識の高い人を対象にした、共同アパートというところだろう。

通勤時間を短くし、交通の利便性も上げ、居住のコストも下げて、異業種の年齢幅の違う人とも話したりするスペースがある。うまく運営できるならば、こうした環境が広がってくるのは当然で、ことさら強調されることの多い印象の「シェアハウス」は新しい「ノマドの生活形態だ」という考え方とは、あんまり関係ないなあ、と感じた。今の時代の経済条件が生みだしているものなのだ。

そう考えると、別段、驚く事でも何でもなく、今後ともこうした居住形態は都内中心部に増加していくことだろう。

こうした若い人の行動は日本社会全体が貧しくなり始めている兆候に見える

しかし、私が面白いなと感じたのが、暮らしている方との雑談で、とにかく今のあまりに激烈な現場の仕事に限界を感じていて、「もっと給料は、安くてもいいから普通に長く暮らすことができないか」というように感じている方が、若い世代ほど多いということだ。

そのためには、派遣社員といった不安定な仕事でも構わないので、会社を離れてもいい。そのかわり、自分が好きと感じられるような仕事と長くつきあえないだろうかと考えている一流会社に勤める20代の人の話が考えさせられた。もうこの世代には年金は戻ってこない事はわかっているし(ただの税金だ)、こんな時代だからマジメに勤め上げても、大手であれ企業もいつ吹っ飛ぶのかわからない。会社だけに縛られて、まだ中途半端に残っている年功序列型賃金制度と、会社への囲い込みの中で、きちんとしたスキルを得られない恐怖がそこにはある。そうした不安定な五里霧中の時代のなかで、どう生きたらいいのかを真剣に悩み、自らの選択を信じて選ぼうとしている。だけど、話を伺っていると危なっかしくも感じる。

同じような話は、この場だけではなく、最近お会いする人で、特に若い人に多い。同時多発的に起きているように思える。これが、ゼロ成長の時代なのだろう。そして、じりじりと日本という国が貧しくなりはじめている兆候にも思える。たいていの人は無自覚だが。だから、ノマド(なるもの)が言葉として流行るのだろう。

もしかしたら、どこかに「青い鳥」がいるのではないかと懸命に探しているニーズが「ノマド論争」として姿を現しているようにも思える。ただ、今、「青い鳥」は、この国にはほとんどいないというのが、逆に、ノマド(なるもの)を長年やってきた私の実感ではある。ノマドを売りにして、成功できる人は当然いるだろう。だけど、それは一握りに限られるだろう。

ただ、よくわかったのは、喧伝されているライフスタイルの「ノマド」と、最近、ウェブをにぎわせている(らしい)「ノマド論争」なるものはまったく違っていると言うことだ。まあ、正直どっちの話も、私にはどうでもいいのだが。別にどちらの話も新しい話ではないし、どうせ、私自身の生活スタイルは変わらない。

ただ、「浅草橋はなれ」でのシェアハウスでのとりとめもない異分野の仕事をしている人との雑談は、とても楽しかった。また、機会を見て遊びに行かせてもらえればな、と思っている。

新清士 ジャーナリスト(ゲーム・IT)、ライター  @kiyoshi_shin
めるまがアゴラにて「ゲーム産業の興亡」や、日本経済新聞電子版「ゲーム読解」ビジネスファミ通ブログ「人と機械の夢見る力」を連載中