言葉が乏しくなったというより、とんでもなく拡散した時代

大西 宏

現代は、昔に比べると現代は語彙が乏しくなった、あるいは言葉による表現力が貧しくなったと感じることがあると思います。たとえば「青空文庫」で版権フリーとなり、もう古典の部類にはいった作品を時々読みますが、表現豊かな文章力に圧倒されます。
しかしどうでしょうか。同じ土俵で比べることはできないのです。考えても見れば、明治の頃と比べると、明治の人には理解不能な言葉が大量に生まれてきています。


私達の日常のなかでも、パソコン、半導体、インターネット、表計算ソフト、音楽配信、ツイッター、フェイスブック、WiFi、WEBアプリなどといった新しい概念と言葉がきりがないほど増殖してきています。それだけではありません。どの商品にもブランドがつき、量販店の棚に溢れかえっています。
現代でも、ITを最低限しか利用しない人や世代と、日常のなかにITが入り込んでいる人の間ではコミュニケーションも難しくなっています。

新しい概念や言葉が多量に生まれただけでなく、通信の発展は、フェイスタイムで遠く離れた家族と顔と顔をあわせ会話することを可能にしたり、時間と場所を選ばずに携帯電話やスマートフォンで連絡を取り合えるようにもなりました。
それにビジュアルな表現というとかつては、日常的には絵画や工芸などぐらいしかなかったのですが、今では個人のブログでも、画像、動画などをつかって視覚的に表現することもあたりまえの時代です。フェイスブックに写真を添付して雰囲気まで伝えることができるようになったのです。

かつては、海外メディアに日常的に触れるという人はそう多くはなかったと思いますが、今では日本語に翻訳した日本語版も増え、また原語で読むことで障害があるとすれば語学力だけです、

過去が、狭い領域で、深く考える時代だとすると、現代は膨大な情報をどのように理解し、自らの知恵と行動に役立てるのかが鍵になってきた時代だと感じます。しかも、どれをとっても専門化が起こり、知識がないと理解できないことも増えてきました。

変化が激しいと、どうしてもついてこれない人もでてきます。というかなにもかもついていける人はもう天才としかいいようがありません。

しかし、大切なのは、いくら知っている言葉を競い合っても、きりがないのが現代です、むしろ誰もがわかる言葉と言葉をどのように組み合わせ、そこに新しい意味をつくりだすかに焦点が移ってきているように思います。

かつて、リチャード・ワーマンという人が『理解の秘密』という本を書きました。 世界の半分はインストラクションで成り立っているという発想が新鮮でした。どうすればいいのかを示唆するのが情報だということです。

理解の秘密―マジカル・インストラクション (BOOKS IN・FORM Special)
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言葉の知識もさることながら、どのように理解し、どのように行動すればいいかの的確なインストラクションが行えるかどうかが重要だという視点です。よくマーケティングで知った新しい言葉を使って、知識を誇示する人がいますが、なんの意味もありません。
なぜなら、それではインストラクションにならないからです。マーケティングに関わる他の分野の人たちの理解を得てはじめて人も組織が動くからです。めざすは理解を得て、アイデアの実現に向けて組織が動くことなのですから。

インストラクションはなにかの情報と情報の組み合わせで生まれてきます。たとえば、新幹線の利用の仕方という情報と、時刻表という情報があって、何時のどの列車に乗ればいいというインストラクションが可能になってきます。

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
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ワーマンが『理解の秘密』を書いてからかなりたって、今度は『キュレーション』という言葉が使われるようになりました。佐々木俊尚さんの『キュレーションの時代』はこのことをわかりやすく語ってくれています。
今日は情報があまりにも溢れ、専門化してしまい、どの情報が役にたつか、あるいは真偽はどうか、さらにどのような意味を持っているのかがわかりづらい時代です。
だから情報の大海から重要なものをピックアップして、また組み合わせ、解説できる存在としての『キュレーター』が注目されるようになってきています。

さて、最近よくわからないと感じるのは、「教育改革」という言葉です。改革するというのだからアクションは含んでいます。しかし、何を目指して、なにを変えようとしているのかがわかりません。

自民党の総裁候補に手をあげている安倍さんが「教育改革」では橋下さんと一致していると語っていましたが、なにが一致しているのでしょう。さっぱりわかりません。それではなにも語っていないのと同じだと感じてしまうのです。他の機会、他の場所で嫌というほど語っていると言われても、安倍さんをずっとフォローしているわけではないのでわかりません。

教育委員会という制度を変えようというのか、いわゆる「自虐的歴史観」を変えようというのか、学力を向上させようというのでしょうか。

教育委員会の問題なら理解できます。形骸化してしまって、いじめなどの肝心な問題でなんら機能していないことがわかったからです。

教育で変えなければならないのは、もっとちがうところにあるはずです。現代の教育は、大きな流れで見るなら、工業化の時代に適した人材を育てるシステムで、それは平均的に物事をこなせる人材を大量に生み出すことを目指してきたのではないかと感じます。考えることよりも、あるいは伝えることよりも、知識を得ることに偏ってきたのではないかと感じるのです。
だから突出した人、個性を育てる仕組みではなく、突出した能力、個性を持つ人を人を排除する仕組みや文化があるのではないかと危惧しています。

しかし工業化から情報化の社会に移行してくると、そういった平均的な人材は次第に活躍できなくなってきています。むしろなにか新しい意味を発見できる人材、創造力をもった人材をいかに育てるかが重要になってきます。そういった社員を育てることに失敗した企業は今は大変なことになってきています。
平均的な能力で通じない時代なのです。自らにあった個性で突出しようとするエネルギーを持った人が求められてきているのです。

さらにグローバル化が進んできたために国際感覚をもった人びとも求められてきています。それは語学力だけでは済まない問題です。

時代環境によって、文化も異なってきます。使われる言葉も変わってきます。そして情報の洪水の時代には、その洪水をうまく渡るための知恵が必要になってきているのだと感じます。