目先が苦しい為に、将来の技術の芽を摘んでいないか?

松本 徹三

「技術」という言葉は幅の広い言葉だが、「全ての技術には学問的な裏づけがある」という事は言えるだろう。言い換えれば、学問的に正しい事は、常に「技術」として人の役に立つ可能性があり、逆に、学問的に正しくない事は、「技術」としても成立し得ないとも言える。従って、理工系の大学や大学院が「技術」の発展に大きな役割を果たす事は大いにありうる。


それ故に、文科省や経産省は大学の研究室などに多くの資金拠出をしているし、企業も「産学連携」にそれなりの興味は持っている。日本が「技術立国」の加速を望むなら、この様な動きはもっと促進されて然るべきなのだが、残念ながら、現状ではこの成果が十分上がっているとは言い難い。世界経済フォーラムの競争力レポートによると、「数学・科学教育の質」のランキングでは、1位はシンガポールで、日本は22位に過ぎない。「産学連携の取り組み」では、5位のシンガポール、12位の台湾の後塵を拝し、日本は16位だ。(1位はスイス、2位は英国、3位が米国。)

これは何故なのだろうか? 何処をどう直せば、日本の「技術立国」の為に大学や大学院の力がより良く活用でき、大学や大学院に在籍する研究者や学生達をもっと勇気付ける事が出来るのだろうか?

私の見るところでは、日本と米国の技術者には明らかに大きく違うところがあるように思える。(尤も、「米国の技術者」といっても、アングロサクソン系の人は稀で、ユダヤ系、インド系を筆頭に、世界中のあらゆる国から来た人達の集団を意味する。)一言で言えば、日本の技術者は総じておとなしく、ビジネスには興味が少ないのに対し、米国の技術者にはビジネスに対する興味を持つ人達が多く、PhDを取った後に、わざわざMBAを取るような人達も数多い。

後でも述べるが、日本社会の最大の問題は、殊更に「文系」と「理系」を分けることだ。そして、現在の社会では概ね「文系」の方がのさばっている。これは、恐らく明治維新に端を発していると思う。「軍人」を別とすれば、「政治家」や「官僚」が「位、人身を極める」為の最良の進路であり、「技術者」や「実業人」は常に一格下に見られてきた。明治維新前にまで遡れば、社会の規範となる人と言えば、「論語をそらんじ、漢詩を吟ずる」ような人達であり、間違っても「道具作り」や「算用」に長けた人達ではなかった。

米国などでは、「際立って頭のいい子供」がいれば、その子が「際立っておしゃべり」でない限りは、科学者になることが期待され、本人もその様に意識する。しかし、日本では、「頭がいい」に加えて「人付き合いが苦手」というカテゴリーに入る若者達が、概ね「理系」に進み、そうでなければ「文系」を志向する。恐らくは、「文系」の方が自由で楽しい大学生活を送れそうだからだろう。(白状すると私もそういう一人だった。)

実業家には、何よりも「人間に対する興味」がなければならない。また、極端に「人付き合いが苦手」では、仕事も上手く出来ない。だから「理系」に進んだ人達の多くが、「技術開発」や「工場の運営」等をコツコツとやる道を歩む。大学の研究室に残った人達は勿論、企業に就職した人達の多くも、概ね「ダイナミックな企業活動の最前線」からは無縁となる。

「文系」と「理系」を殊更に分ける日本の文化の弊害は、企業経営にも色濃く影を落としているように思う。文系出身の社長は技術部門に遠慮し、技術問題には深く立ち入らない。技術系のトップが「そんな事は出来ません」と言えば、経営者の観点からは納得出来なくても、諦めざるを得ない。「これが出来ないのなら、あなたには辞めて貰うしかありません」とまで言える経営者はほぼゼロだろう。

技術部門はと言えば、部門内でのヒエラルキーがあり、パワー構造がある。会社の持っている「技術力」は会社の盛衰を左右する程の力を持っているのだが、個々の技術者の能力ということになると、業績上の結果ですぐに見分けられるものでもない。従って、部門内での権威者の評価が大きくものを言う事になり、こうなると、「親分・子分システム」が牢固たる力を持つ事になる。(この傾向は大学や大学院ではより顕著なようだ。)

技術部門のトップに立った人がそのまま全社のトップに立つという事も、メーカーなどでは良くある事だが、この場合も問題がないとはいえない。閉鎖的な技術部門で圧倒的な力を持ったからといって、幅広い視野で複眼的に物を見なければならない全社のトップが、必ずしも務まる保証はないし、理想主義的な中央突破型の人物だと、却って大きな誤りを犯す危険もないとは言えない。

実際には、世界の流れを大きく変えるようなブレークスルーの殆どは「技術革新」から出てきている。これは、蒸気機関の発明に始まる産業革命以来のビジネスの大きな流れを見ていけば容易に分かる事だ。だから、経営のトップに立つものは、本来なら、「技術の大きな流れ」を本質的に理解していて、時代を変えるような可能性を秘めた新技術には、常に爛々と目を輝かすようでなければならない。しかし、現実にはそんな人はあまりいない。

「画期的な新技術」を育てる為には、既存の流れに捉われず、その潜在力と現実性を適確に見抜く「目利き」の存在が欠かせないが、こういう人の存在が稀なのも残念だ。これは、「文系」と一括りにされる人であっても出来る事であり、或いは、余分なバイアスがかからない分だけ、却ってより上手く出来るかもしれないのだが、多くの「文系」の人達は、自信がない故か、権威主義的な周りの「理系」の人達の意見に全面的に頼ってしまう傾向がある。

しかし、「理系」の人達に盲目的に「目利き」の仕事を任せてしまうのは、実は大変危険なのだ。技術者というものは、自分が今取り組んでいる事に強い愛着を持っているのが常なので、そこから外れたものについては、否定的になる可能性が高いからだ。どんな潜在力をもった技術であっても、ここで否定されてしまっては、日を見る事はない。

今は多くのメーカーが経営的に困難に直面しており、技術開発の任にある人達も、コスト効率を最優先にして、目先の利益の確保(或いは損失の減少)に汲々とせざるを得ないケースが多いようだ。だから、「未だ良く分らないが、もしかしたら世の中を抜本的に変える事になるかも知れない」技術等にかまけている余裕がない。本当は、そういう技術こそが、閉塞的な現在の日本に突破口をもたらす希望の光なのだが、これが現在の日本の実情だ。

米国だと、こういう技術を丁寧に拾って育てていくベンチャーファンドがあるのだが、日本にはこれがない。日本のベンチャーファンドの多くは、「技術の事は分からない」と頭から降参してしまっている財務系の人達がやっているケースが多く、また、透徹した技術戦略眼を持った「信頼に足るコンサルタント」も殆ど存在しない。大企業やベンチャーファンドには、毎日の様に「新しい技術」の話が持ち込まれるが、玉石混淆であり、よほど本質を見抜ける人でないと、「石」にかかわりあってしまう確率が高い。そうなると、次第に失敗例が積み重なり、「技術関連の案件はもう懲り懲り」となってしまうのも、致し方のない事なのかもしれない。

こうして、経済的な強さを失いつつある現在の日本では、優秀な技術者は存在していても、それがビジネスに結びつく可能性はどんどん希薄になりつつある。そして、これが日本の経済的な地盤沈下を更に加速させる元凶になりつつある事は否定できない。

さて、ここで本題に戻り、「学問の府」である大学の役割と、「産学連携」のあり方について論じたい。

「真に革新的な技術」の多くには、それを実現する為に解決すべき難問が数多く存在する。発想が革新的であればある程、その難問の数は圧倒的に多くなり、その全てを一つ一つ解決していく為には膨大な時間を要する。それ故に、普通の企業では、こういう技術の開発案件は却下される可能性が高い。社長にすれば、「自分が退任したずっと後にやっと実現できるかもしれない技術」などに、巨額の投資をするのには気が進まなくて当然だからだ。

しかし、大学なら可能かもしれない。ある技術の体系を全体として実現する為に必要な幾多の要素技術の一つ一つが、それだけで独立した研究のテーマになり得るし、それについての論文は学問的な業績として評価されるからだ。国もこういう研究プロジェクトには資金を拠出しやすいだろう。しかし、実は、それだけでは問題の真の解決にはならないのだ。

折角大きな発見や発明があっても、それが学問の世界だけに留まってしまって、「実生活に役に立つ工業商品」の開発へと結び付かなければ、その意義は半減してしまう。その上、折角使われた研究者の時間や研究費も、経済的に元が取れないままに消えていってしまう可能性が高い。

本来は、偉大な発見や発明を行った研究者には、経済的にも「皆が目を見張るような金銭的な見返り」が与えられるべきだ。これを目の当たりにすれば、理工系の学生も目を輝かすだろうし、成功物語は回り回って多くの高校生達の耳にも入り、若者達の理工系離れを押しとどめるのにも役立つだろう。(「サッカーの上手い子供」が「将来はプロの選手になって世界で活躍したい」と夢見るように、「頭のいい子供」も、同様の大きな夢を見るべきだ。)

しかし、この様な事は、言うは易くとも、実現するのは極めて難しい。この様な事が実現する為には、全体の研究が、一つの「揺るぎのない理念」の下に、長い年月にわたって統括されていかなければならず、それを指導し統括する研究者には、並外れた能力と意欲(執念)が求められるからだ。いや、話はむしろ逆で、「始めに強烈な『目的意識』をもった研究者が存在していなければならず、全ての研究は、その人の『目的意識』によって動機付けられていなければならない」と言った方がよいのかもしれない。そうでなければ、「要素技術」は最後まで「要素技術」たるにとどまってしまい、「論文」は「論文」だけで終わってしまう。

しかし、仮にそういった卓抜した研究者が存在したとしても、それだけではなお不十分だ。実際に商品を作り出し販売していく為には、資金を集め、関係企業群を説得するところから始まって、ありとあらゆる障害を乗り越え、初志を貫徹する「事業家」の存在が必要だが、技術とビジネスの両方を深く理解し、情熱と行動力を併せ持った「事業家」は、この世の中(特に今の日本)には、実は驚く程僅かしかいない。多くの人達は、評論家としては饒舌だが、自ら手を汚すのを躊躇する。

結局、最後は「人」だ。「大企業」の中であれ、「学問の世界」の中であれ、或いは、その外に広がる「全く自由な世界」においてであれ、そして、若い人であれ、高齢者であれ、こういう能力と意欲を持った「人」を、国を挙げて勇気付け、支援していくことこそが望まれる。