著者:開沼 博
販売元:幻冬舎
(2012-09-12)
★★★☆☆
著者の前著『「フクシマ」論』は、2011年2月に修士論文として東大に提出され、その直後に起こった原発事故の中で刊行されて注目を浴びた。これはよくある「原子力村」を糾弾するものではなく、福島のような現実を生み出した戦後の日本社会を淡々と描いたものだった。本書もその延長上で、事故後の被災地を回りながら、そこにみえる日本の現実を描いている。
本書のテーマは、日本が再「宗教」化しつつあるという問題だ。日本人は無宗教だといわれるが、人間は何かを信じないで生きて行くことはできない。60年代までは、鉄腕アトムやどらえもんの動力が原子力だったことに象徴されるように、原子力は「夢のエネルギー」だった。人々は近代科学による経済成長という神話の一部として、安全神話を信じたのだ。しかし原発事故はその信仰を打ち砕き、それに代わって出てきたのが「脱原発神話」だった。
そこに何らかの発見や進歩はあったのだろうか。事故の前から現地を見ている著者は、根本的には何の変化もないという。かつては福島の貧しさを利用して迷惑施設を置いた「東京の人」が、事故後は一面的な「正義」を振りかざし、被災者の前で「福島に住むことは人殺しと同じだ」という。勧善懲悪の感情論で科学者を「御用学者」として否定し、他人の主張を内容ではなく「推進派か反対派か」という宗派で判断する風潮が広がった。
そこに著者は、日本の「変わらなさ」を見る。つねに大きなものにすがってまわりに同調し、客観的事実より自分にとって受け入れやすい神話を信じる。そのよりどころが原子力村から反原発デモになっただけで、本質は何も変わっていない。このように中心も論理もなくうつろいやすい気分からは、閉塞状況を変える力は出てこない。
本書は脱原発派の明快な言説とは違い、ためらいがちで歯切れがよくない。それは被災地の現実を単純な「正義」で割り切ることが被災者を束縛し、彼らの生活を破壊することを著者が知っているからだろうが、社会学者ならもう少し理論的に分析してほしい。