石原新党をめぐってメディアは関心をもっているようですが、石原さんの老骨鞭打つ強い決意と意思表明にもかかわらず、なにか日本の閉塞状況をブレークスルーするための新しい切り口が語られた様子のないのが残念なところです。中央官僚の支配を打破するということでは共感を持ったとしても、問いたいのは何をめざしてそれをしようとするのかです。中央官僚の能力や体質への絶望や憎しみが動機ならいざしらず、中央官僚支配を打破するというのも、目的ではなく手段であるはずです。
中央官僚支配を破壊して、それで少子高齢化の課題をクリアできるのか、財政の健全化を進めることができるのか、経済の停滞から脱出できるのか、世界の都市間競争で競争に優位に立てる都市づくりができるのか、あるいは地域に根ざしたコミュニティを強化できるのか、その目指すところのほうが重要です。それらに答えられなければ、たんなる老人のボヤキにしか感じません。これから日本の将来ビジョンが語られるのでしょうか。
もちろん、日本だけでなく世界が抱えている複雑で、変化の激しい、しかも大きな課題を解決していくために、発展途上国型の硬直した中央集権体制では、創造性や柔軟性に欠け、今日の複雑で多様な現実への対応力が減衰していることも事実でしょう。制度疲労も起こってきているとは感じますが、なにを目指すかがなければ、創造的な破壊ではなく、たんなる破壊に過ぎません。政治が明確な方向性を示し、また官僚の人事権を握れば、官僚の人たちをも巻き込んだ改革をスタートさせることができるはずです。
第三極といいますが、なにを中心に結集する第三極なのか、その中味が問われています。「地方分権」でしょうか。それとも「保守再編」なのでしょうか。「保守再編」だとするのなら最初から破綻しています。日本の「保守」は「革新」があってはじめて成り立った思想でしかなく、「革新」勢力が実質的に破綻してしまった現代ではほとんどなんの意味もありません。よほど政治が好きな人ならいざしらず、「保守」といわれても、その意味がまったくわからないお題目でしょう。もともと意味がないのですから。
日の丸を掲げ、君が代を斉唱することが保守なのでしょうか。それならサッカーのワールドカップで、ジャパンを熱く応援する人が、顔にも日の丸を描いている姿を見ますが、その人たちを保守主義者だと感じる人はいないはずです。君が代を聞いても選手たちには国家のための君が代ではなく、自らのための君が代に聞こえているのではないでしょうか。日の丸も君が代も、一部の国粋主義を信奉している「保守」を任じる人たちやいまだに資本主義を悪と考える人たちから離れたのです。健全だと思います。
マスコミや評論家のなかでも、未だに「保守」と「革新」の枠組みから抜け出せない人がいますが、求められているのは、「保守」か「革新」かを選ぶことではなく、日本が抱えた現実の課題をどうブレークスルーするのか、そのための新しい発想を生み出すことのはずです。新しい発想を持ち込み、実際の政策に落としこんで、日本を動かすエネルギーを結集していくベクトルづくりです。
おそらく石原さんも、そういったエネルギーが生まれてこない現状に強い危機感を感じているから、勝負にでたのだと思いますが、残念ながら、危機を訴える力はあっても、ビジョンを語り、人びとを引き付ける発想を持たないところに限界を感じます。
しかも作家でありながら、小沢さんを生理的に嫌いだとしか発言できないところも、あまりにも情緒的で、好き嫌いで政治を語っているようで、大きな勢力を結集させることはとうていできません。発言するなら理念やビジョンの違いを示す思慮深さが欲しいところです。国政問題でも感情を抑えられず、国益を考えられないようでは話になりません。
国民が望んでいるのは、「問題解決のための政治」です。「思想のための政治」でも、「既得権益のための政治」でも、「好き嫌いでぶれる情緒の政治」でもありません。
安全を考えれば脱原発を進めたい、しかしそれはうまくやらないと、日本はエネルギーで足をひっぱられるリスクをともないます。少子化を解決するには移民政策も考えなければならないけれど、しかしそれで欧米のように移民問題が起こり社会混乱にもつながりかねません。財政赤字は解消しなければいけないとしても、極端な緊縮財政で経済が悪化すれば元も子もない等々、相矛盾しかねないトレード・オフの課題をブレークスルーしていくための政治でしょう。
そうそう妙案があるとは思いませんが、すくなくとも経済を活性化させないと、なにかを行なう財政を賄うことはできず、経済を活性化させることは必須条件です。日本が強みとしてきた経済が傷んできたことは、日本の存在感を薄め、外交力にも陰を落としてきており、日本の安全保障にも影響してきています。
みんなの党も、維新の会も急激な肥大化は、逆に「政党の品質」を落としてしまいかねません。政党としての品質を高めていくことに今は徹したほうが、違いが浮き彫りになってきます。コトを急ぐといったいなにのための政党なのかも見失われてしまいます。くれぐれも話題がつくれるという誘惑にかられないように願いたいものです。維新の会も、みんなの党も、石原新党とは、適当な距離感を保っているように見えますが、そのバランス感覚を失わないで欲しいところです。