石川和男
東京財団上席研究員
元経産省・資源エネルギー庁
【要旨】原発再稼働をめぐり政府内で官邸・経済産業省と原子力規制委員会が綱引きを続けている。その間も、原発停止による燃料費の増加支出によって膨大な国富が海外に流出し、北海道は刻々と電力逼迫に追い込まれている。民主党政権は、電力会社をスケープゴートにすることで、発送電分離を通じた「電力全面自由化」に血道を上げるが、これは需要家利益にそぐわない。いまなすべきエネルギー政策の王道――それは「原子力事業の国家管理化」である。
【本文】
「人治」による状況の混乱
原子力発電所の再稼働手続きが定まらない。野田佳彦首相は「原子力規制委員会が主導的役割を果たす」とし、規制委は「安全性は判断するが、再稼働の判断はしない」としている。責任のなすりつけ合いと受け取る国民は多いだろう。
本来、定期検査に入った原発は、規制当局が安全基準に照らして技術的に安全と判断すれば再稼働、危険と判断すれば安全性を確保するまでは停止となる。政治的判断が入り込む余地はない。全ての原発が定期検査に入ったまま動かないのは、「法治」行政ではなく「人治」行政だ。
東京電力福島第一原発事故の教訓を反映し、安全基準は改定されなければならない。しかしそれには時間がかかる。規制委設置がこの9月までずれこんだため、新安全基準の策定はこれからだ。田中俊一・規制委委員長は「新基準の骨格がまとまるのは今年度末」と言っている。
新基準が策定されるまでの間は、現行基準で判断するというのが法治国家として真の姿だ。先般、日本触媒姫路製造所で爆発事故があったが、その余波で行政が他の化学プラントを止めたとは聞かない。阪神・淡路大震災で高速道路が倒壊したが、その直後も他の高速道は利用できた。交通事故ですら、道路交通法が改正されても新法が施行されるまでは旧法が適用される。新基準の適用前に、経済活動を止めるのは不適法であり不文律であり不利益だからだ。
北海道に計画停電の危機が迫る
もちろん有事の際であれば、超法規的措置はあり得る。筆者には全国の原発が全基停止に至るまでの経緯はとても有事とは考えられないが、仮に超法規的措置が妥当だとしても、事故直後に全ての原発を止めなければ理屈が立たない。明らかにおかしいのは、定期検査前はどの原発も動いていたという事実である。それにも拘わらず、定期検査に入ると根拠なく塩漬けにされる。これは政治の恣意性そのものだ。
しかも、超法規的措置は、そのような措置があり得ると、予め手続法として定められていなければならない。中部電力浜岡原発の停止が首相の「要請」によってなされたのは、定めがないことの証左である。
今冬の電力需給は厳しい。特に北海道は道経済産業局長が「計画停電の発生を想定し準備すべき」と発言するほどである。北海道電力泊原発の再稼働が不可欠だが、報道によれば、田中委員長に現行基準(もしくは関西電力大飯原発の再稼働に適用した暫定基準)を用いて安全性を判断する考えはない。事実上泊の再稼働は封じられている。国民経済社会の安定に責任を持つ政府は、規制委に現行基準による安全性判断を求めるのが正しい。それが規制委発足を遅らせた政治・行政の償い方である。
原発停止により、年間約3兆円強が代替火力発電の燃料費として資源国に流出した。電力会社各社は赤字に陥り、大幅な値上げを検討している。これだけの国富を流出させる政治とは一体何なのか。最善は“人治”から“法治”に戻すことである。
政策として稚拙な民主党政権の「新戦略」
「2030年代に原発ゼロ」とした革新的エネルギー・環境戦略(以下、新戦略)。内閣官房国家戦略室が事務局を務めるエネルギー・環境会議で決定されたものの、その上部会議である国家戦略会議が承認せず、閣議決定からも外された。「柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という閣議決定文は原発ゼロ取り止めと同義だ。
この新戦略、経済産業省在籍時にエネルギー需給見通しや電力・ガス改革に携わった経験のある筆者からすれば、とても官僚がチェックしたとは思えない中身だ。あちこちに自己矛盾が露呈している。
例えば、震災後に工事を中断した電源開発大間原発や中国電力島根原発3号機。建設再開を止めれば国家賠償が起きる可能性を考慮しなかったのだろうか。これらの原発に運転期間40年を適用すれば50年代まで稼働できることになるのに、平気で「30年代原発ゼロ」と書き込んだ。
酷かったのは、使用済み燃料を再利用する核燃料サイクル政策との不整合だ。再処理撤退となると、青森県の中間貯蔵施設や再処理工場にある使用済み燃料を引き取らなければならなくなる。だから新戦略には再処理継続を盛り込んだのだろうが、これには米国が噛み付いたことになっている。
原発ゼロなのに再処理を続ければ、核兵器への転用が可能なプルトニウムが日本に溜まり続けてしまう。米政府は、イランや北朝鮮に核不拡散を迫っていることもあり、原発ゼロを掲げるなら再処理は放棄せよと、訪米した長島昭久首相補佐官(当時)らに要求したと報道されている。
「米側からの指摘で判断を変えたということはない」と政府はコメントしているようだが、そうでなければ困る。米国に要求されに行ったのではなく、要求させに行ったのが実態と心底願いたい。もし真っ白な状態で訪米し、米国に要求されて初めて核燃料サイクル政策との整合性を考えたのであれば、民主党政権を選んだ国民は赤っ恥である。
新戦略にプルトニウムの問題が触れられていない時点で、資源エネルギー庁の担当者がまじめに見ていないか、そもそも見せられていないかのどちらかだと筆者は感じた。
「原発ゼロ」は経済上の「一億玉砕」へ
新戦略に掲げられた原発ゼロへの道筋は非現実的すぎる。省エネルギーは、30年段階の1次エネルギー供給量で10年比19%、発電電力量で10%の削減を見込む(累積投資額38兆円)。1990年度から10年度までの20年間で発電電力量が約3割増えたことを考えれば、この省エネ計画は我慢の限界を超越している。
再生可能エネルギーの拡大は、水力を除くと、10年段階で250億kWhしか入っていないのに、これから20年で約8倍の1900億kWhまで拡大させるという。累積投資額は38兆円。住宅用太陽光ひとつとっても、設置可能な戸建住宅の8割に導入しなければならない規模だ。無理筋としか思えない。
そして何より原発ゼロは、日本のエネルギー資源基盤の脆弱性を無視している。ウラン燃料は化石燃料より価格が安く、体積の小ささ(石油の約7万分の1)から流通・備蓄コストも安い。日本人は2度のオイルショックを思い起こすべきだ。私は、某天然ガス産出国関係筋から「日本人は豊かですね」と半ば嫌みな感じで言われた。投資家筋からもこうした指摘が多い。わざわざ原子力を停止して高い液化天然ガスを買ってくれる日本は「金づる」にしか見えないのだろう。「一億玉砕」の再来である。
性急な脱原発は、これまでの原子力への投資をすべてサンクコスト(埋没費用)に変えてしまう。原発は建設費が高くつくが、その償却さえ終われば、あとは安い燃料費だけで運転できるため、40年動かせば(安全性の個別判断によりそれは35年にも45年にもなり得る)、十分な廃炉財源や、万が一の事故による賠償費用を積み立てることができる。脱原発を急げば急ぐほど廃炉も賠償も財源調達が難しくなることを、政府は認識していただろうか。
電力自由化は競争を産まない?
政府が次なる大テーマに掲げているのが、電力システム改革である。一言で言えば、発送電分離を通じた「電力全面自由化」だ。
経産省を「原子力ムラ」の一員、電力会社の仲間と見る向きもある。しかし、経産省は長年、電力業界の影響力を低下させる方策を探し続けてきたと見るほうが妥当だ。原発を止めた結果上がってしまう電力料金を下げる魔法が欲しい政治家と、電力会社の政治力を削ぎたい官僚が呉越同舟しているのが電力自由化だと筆者は強く思っている。
95年の卸電力自由化、99年の大口電力小売自由化に関わった人間としてはっきり言いたい。電力完全自由化を実行しても、既存電力会社の独占力を強めるだけで、電気料金はむしろ上がる恐れが強い。
競争政策は競争相手を生み出せるかどうかが全てである。今回は卸電力市場の活性化も併せて進めるとのことだが、電力料金の大半を占めるのは発電所の建設・運転費用である。建設費は莫大で、環境アセスメントや用地買収で計画から稼動まで約10年を要する。運転費用の大宗を占める燃料費は、ほぼ全量輸入だから調達規模で決まり、小さいロットで安く調達することは困難だ。95年、99年の自由化でも新しく自前の発電所を造った新電力は数社だけなのに、さらに期待収益の低い小口向け(家庭用)で競争を起こせるとなぜ確信できるのだろうか。
よく通信自由化になぞらえる論者がいるが、通信は電力で言うところの送電だけで、発電がない。ドミナント規制(支配的事業者への規制)で競争を起こせる通信と、発電の投資リスクが大きい電力は異なる。
総括原価方式を見直せば電力料金が下がるというのも誤解である。99年改正で既に値下げの自由化(認可制から届出制へ)は実施済みだ。ここで値上げの自由化を行えば、今回東電の値上げ幅を10・28%から8・47%に圧縮したような芸当はできなくなる。先述のとおり新規参入は望み薄だから、既存電力は上げたい放題になってしまう。
自由化ではなく国家管理化が有効な選択肢
逼迫する電力需給、国富の流出、電力料金上昇といった国民経済への大打撃を考えれば、最重要課題は発送電分離を通じた電力全面自由化ではなく、再稼働・廃炉・使用済み燃料問題を含めた原発政策の合理化だ。
政府は、規制権限は規制委にあり、供給義務は電力会社にあるという理屈で、世論受けの悪い再稼働から逃げ回っている。本来、電力を低廉かつ安定的に供給するシステムの維持はエネルギー政策を司る政府の役割である。 「国策民営」を逆手にとって、その役割までも電力会社にアウトソーシングしている現状を改めるには、「原子力事業の国家管理化」しかない。
枝野幸男経済産業相は最近刊行した著書のなかで、脱原発を進めるための原子力国有化を説く。これと筆者の考えとは全く異なる。
国家管理化といっても、各社から原子力部門を資本分離するようなことが良いとは考えていない。各社の事業として残しつつ、原子力部門に国家公務としての位置付けを明確に与えるイメージだ。もちろん、原発からの収益は各社に帰属させる。
電力会社が、竣工、検査、再稼働、廃炉のタイミングごとに恣意的な政治判断を押し付けられることを防ぎ、国家自身が自らの責任において稼働や廃炉を実施するように仕向けるための国家管理化である。それでも再稼働を渋るなら、電力料金値上げを国家自身が実施しなければならないような制度設計を行う必要がある。
このような「原子力改革」こそが、エネルギー政策史上に残る大仕事となるだろう。