自由の代償:アルゼンチンという国の売買について

松岡 祐紀

あと2週間で国が財政破綻すると聞いたらどうするだろう?

[FT]アルゼンチン債務問題、集団行動条項の重要性示す(社説)
(日本経済新聞の英国ファイナンシャル・タイムズ引用記事)

アルゼンチンがまさに今、その状況に陥っている。要約すると、2001年にアルゼンチンがデフォルトしたあとに、その国債を二束三文でアメリカのヘッジファンドが買取り、アルゼンチン相手にマネーゲームを繰り広げているのだ。


この状況は一旦解消され、本日付けの現地新聞の報道で、12月15日だった期限は2013年2月27日まで持ち越されることになったが、未だ予断が許さない事態となっている。

またこちらの記事(英語)によると、アルゼンチン対ヘッジファンドという構図ではなくなり、ブレバン・ハワードという巨大ヘッジファンドがアルゼンチンのバックについたことにより、ヘッジファンド対ヘッジファンドという構図になったとのことだ。

さらに両者を代表する弁護士が、アメリカを代表するトップ弁護士であり、ブッシュ対ゴア事件で両陣営の弁護士を務めた二人がまた法廷で争うことになった。

一国の未来を左右するのに、なぜアルゼンチン国外であるニューヨークの法廷で争うのかというと、多くの国の債券がそうであるように、アルゼンチン債も海外であるアメリカの法律に基づいているからだ。

G20のメンバーであるアルゼンチンというひとつの国の未来が、二人のアメリカ人の手に委ねられたといっても過言ではないこの事態にある種の皮肉を感じてしまう。

アルゼンチンは今年に入って経済成長が鈍化し、ウィキペディアにあるように「戦闘的な労働組合」のせいで度重なるストライキに見舞われている。

年率25%と言われる高いインフレに見舞われており、現政権の極端な保護主義的な経済政策による不満も理解できる。(詳しくは拙ブログ「アルゼンチンの落日:政治と経済と外国人であるということ」をご覧ください)

彼ら自身は国を良くしたいという一心でデモやストライキに参加しているかもしれないが、大局的に見ると彼らの思いなど全く関係ない。国の未来は彼らの首都であるブエノスアイレスで決められるのではなく、世界一の金融市場であるニューヨークで決定されるのだ。

このような事態を招いたのは元をただせば90年代に「新自由主義」という号令のもと、経済市場を開放し、一ドル一ペソのドルペッグ制を導入して国内に安い輸入品を溢れかえらせた代わりに、自国産業を壊滅状態に追いやり、挙句の果てに外資に石油、鉄道、電話などあらゆるインフラを売り払い、最終的には2001年にデフォルトしたつけだと言える。(ここに至るまでの経緯は「金貸しは、国家を相手に金を貸す」に詳しいです)

人々は常に自由を求めて戦う。だが、自由という言葉の裏には常に危険が潜む。現在、日本でもTPPが議論を呼んでいるが、日本のように経済的に成熟しきった国が「自由」といういわば喧嘩慣れした世界の強者たちの土俵にあがるのは選択肢としてありかもしれない。

しかし、アルゼンチンのような未だ発展途上国であり、大国の思惑や欲望をよく理解しないまま自国の経済市場を開放すると、大国に蹂躙されてしまう。

そして、それから十数年たった今でもその負の遺産を引きずる羽目になり、挙句の果てに国の未来を決めるのに外国の法廷で、その原因を作った外国人を代理人として争わないといけないのだ。

自由という市場では、国すらも売買出来る。両陣営にとって「アルゼンチンの未来」など関係ない。いかに自分たちのヘッジファンド、それに投資している人たちの金を増やすしかことにしか興味がない。それがいわばグローバリゼーションというものであり、自由化された経済のなれの果てなのかもしれない。

この国では人々がカセロラッソ(鍋)を手に、それを叩いて抗議することで有名だが、鍋を叩いている暇があれば、経済の仕組みを理解し、彼らが求めている自由とは一体どのようなものなのか理解する必要があるように思う。

それは彼らが思っているようなセンチメンタルな感情的なものではなく、彼らが手にしている鍋のように無機質で冷たい、いわば国自体の売買を「いかに利益を上げるか」という視点で行うようなことを意味していることに気づくだろう。

株式会社ワンズワード 松岡祐紀
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