とやかく言いたいとは全く思っていないし、その時間的余裕もないのだが、先の石井孝明さんの記事には、細部に不正確なところが散見され、ミスリーディングなところがあると考えるので、手短に指摘しておきたい。もっとも問題だと思うのは、次の記述である。
法改正では「1金利の上限規制(原則15%)」「2・総量規制(貸出金の規制)」「3・過払い金返還(過去にさかのぼって上限金利を適用し、払いすぎ金利を戻す)」という政策を行った。
このうち3.は、いわゆるグレーゾーン金利を否定した2006年1月の最高裁判決に基づくもので、違法ということになれば「不当利益」は当然に返還されなければならないということになる。すなわち、司法判断に根拠をもった話で、法改正で導入された政策ではない。むしろ、この最高裁判決が出て、それまでの消費者金融行政が不適切なものだとされてしまったので、貸金業法の大がかりな改正が不可避になったという流れである。
こうした流れを含めて、貸金業法改正の経緯に関しては、井手壮平『サラ金崩壊』早川書房、2007年が優れたドキュメントだが、残念なことに既に絶版になっているようだ。とにかく行政優位と批判されることはあっても、日本は三権分立になっているのだから、司法府の判断と行政府の活動、立法府の対応を混同した議論はミスリーディングである。
他にも、「銀行が相手をするのは大企業のみ。」といったステロタイプの、しかし事実に反する記述もある。[この記事が最初に掲載された時点では、隣に「関西アーバン銀行」のフリーローンの大きな広告が出ていた。]
今回も石井さんの記事のロジックは、急減に与信規模と貸金業者の数が減っているから問題だといういうだけに止まっている。そうした論理が有意味に成り立つためには、当初の規模が適切だった(あるいは、まだ小さかった)という前提が必要だが、その前提を積極的に根拠づけているわけではない。「もちろん貸金業者には、一部報道や批判のように、行儀の悪い業者もいたかもしれない。だからと言って、社会に一定の役割を果たしていた産業を壊す必要はない。」といった言い方がされているだけである。
しかし、もう1つ前の記事では「法律で曖昧な規定しかない金利帯でビジネスを行い、派手な広告を繰り返し、債務者教育もせず、長者番付に経営者は名前を連ねて社員は高給を誇り、一部の違法性の疑われる貸し出し、取り立てがあった。反感を集めるのは当然であり、私はこれを批判していた。」と書かれていた。自分が批判していたはずの事実を「いたかもしれない」というのは、どういうことなのだろうか。
過剰貸付が存在していたのであれば、その過剰分が収縮することは悪いことではなく、望ましいことである。そして、過剰貸付が存在していたことは、消費者金融の利用者数と貸付残高を比べれば、算数の問題で分かることである。また、私は先の記事で、「金融を論じる際に最も重要だといってよい区別は、liquidity(流動性)とsolvency(支払い能力)の区別である。」と述べた。この観点からは、次の記述にも首をかしげざるを得ない。
家計運営の失敗で、お金が足りなくなった主婦は、消費者金融が貸さなくなったために、親族からお金を借りて歩いていた。
このケースは、文面からは資金繰り(流動性)の問題ではなく、所得そのものの不足の問題だと思われるが、この主婦が高利で金が借りられれば、問題が改善されるというのだろうか。支払い能力の問題であれば、借入は問題の一時的な先送りを可能にはするが、将来的には事態はさらに悪化する。本人は辛いだろうが、最初から親族から借りる途をとった方が最終的なダメージは少ないと思う。
金を借りることと金をもらうことは違う。金を貸すことと金をあげることは違う。これほど基本的な区別が、昨今は曖昧になっているようだ。金融政策をめぐる議論でも、「金をできるだけ安く、多く貸す」という努力をしているだけでは、芳しい効果が得られないというので、「金を配れ」といった議論がされ、それを「一層の金融緩和」と呼んだりしている。しかし、金を配るのは、金融緩和でも何でもなく、「財政支出」にほかならない。
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池尾 和人@kazikeo