前回の『文化の固定化を目指す愚かさ(その2)』について、「自然や建築物など保存という行為が重要なものもある」というような意見を幾つか頂いた。この点については、私の説明不足があったと思われるので、この記事において回答しよう。
自然や建築物など、それが失われてしまうと二度と元に戻らないものがある。(復元物をどう解釈するかという問題については、ここでは考慮しない。少なくとも、自然遺産や古い建造物などに対して、復元出来るのだから壊しても全く問題無いと考える人は比較的少ないと思われる。)その意味では、将来の為にも保存若しくは記録(アーカイブ)には大きな意義がある。(注1)そして、永続的な保護を市場で任せるよりも国や自治体が行うべきという意見は、筋が通っているだろう。
しかし、「物質的な保存」と「文化の固定化」は似て非なるものである。前回まで議論したように、文化の固定化とは「文化に付与される文脈の固定化」を意味している。ある文化がどのような文脈で受け入れられるかというのが、前回の議論の肝である。
だから、例え自然物や国宝の類など物質的には固定化する事が可能なものでも、そこに付与される文脈は変化する余地がある。
例として富士山を考えてみよう。富士山は自然物であり、世界に一つしかなく、この議論の枠組みにおいても十分に保護の対象となりうるものである。(注2)その富士山は、竹取物語における「不死の山」を始めとして、古くから信仰となってきた。その文脈は長い年月をかけて変化し、現在は嘗てと比べれば、信仰の対象としての文脈は薄れているだろう。それでも、その畏敬の対象の元になる外観から、美術作品の題材などにも多く使われ、そうした文脈も付与されているし、近年は気軽に登山(するような山でも無いのだけれども)といった観光地としての文脈も強い。世界遺産への登録が決まったら、また新たな文脈が付与されるだろう。
このように富士山一つを挙げても、そのエートス(富士山特有の「らしさ」)は存在し続けながらも変化もし続けている。故に、ある文化を物質的に保存する事と、その文脈を固定化してしまう事は全くの別物である。富士山を「物質的に保護する事は重要」というのは広く同意されており、実際、その為の活動が行われているが、その文脈をどう扱うかは別に議論されるべきである。富士山の美化運動(ゴミが多い)にしても、その「景観の偉大さ」を深めていくために行うのか、単に「将来世代の為に物質的に保存する」のか、あるいは「文化遺産に指定してもらい、更に観光客を集める」のか等、どういう目的を持って保護していくかで、その取組みの意義、他に必要な保護方法が変わってくるはずである。
注1:金武・阪本(2005:153-155)によると、現代的な文化経済学の創始者と言われるボウモル=ボウエンは、文化・芸術がもたらす正の外部性について、(1)国家の威信、(2)経済波及効果、(3)将来世代への遺贈、(4)教育的貢献の4つを挙げている。このうち、本稿で関係する(3)については、将来世代の選好を予測する事が出来ないため、享受する文化の選択肢を拡げるという前提がある。
注2:現に近年、世界文化遺産への登録を目指して様々な取り組みが行われている。
竹内 玄信
大阪市立大学・院生