文化の固定化を目指す愚かさ(その1)では、文化の固定化が「過去からの可能性」と「未来への可能性」を損ないかねないとして、実在論的た立場で「文化の保護」という思考に偏り過ぎる事への批判を行った。議論の大筋としては前回の分で十分なのだが、ここではその理論的な整理を行い、その上で文化をどのように捉えるべきかを検討しよう。
前回の最後に、文化の固定化に陥りやすい立場として「実在論的」という表現を用いた。大阪文化という言葉を挙げた時、それにちょうど対応する実体が有ると考える立場である。前回、「大阪文化を構成する要素を全て挙げられるか」という問題を提示したのは、その為である。
広い意味での文化の捉え方を考える時、実在論的な立場として本質主義(essentialism)が多く使われる。この立場で文化を捉えると、時代を越えて過去にも未来にも変わらずに存在し続ける「本質」が要素として存在する事を意味し、かつ、その「本質」は他の文化と明確に区別出来るものという解釈をする。
では、それほどまでに変わらない本質を持つ文化は存在するだろうか。勿論、時代を経ても変わらない本質と呼べるようなものは自然科学の分野には存在する。しかし、実社会を見た時、特に◯◯文化と呼ばれるようなものについて考えた時、他と完全に区別出来る要素として存在する本質を見つけるのは難しい。
しかし、現に大阪文化とか香川文化とか言われるようなものは確かに存在する、と多くの人が感覚として持っている。例が食べ物ばかりで恐縮だが、大阪と言ってたこ焼きをイメージする人は多いし、香川と言ってうどんをイメージする人は多いだろう。
勿論、大阪以外にもたこ焼きが美味しい場所は存在するだろうし、香川意外にもうどんが有名な地域がある。それでも、明確に言えないながらも「◯◯らしさ」として文化の特有性は確かに存在する。この特有性は、『マックス・ウェーバー』が整理したような「エートス」と似た概念である。
実際、エートスの現代的な解釈は、コーエン(Cowen, 2002)が言うような非実在論的な見方である。本稿の言い方で言えば反本質主義的な立場である。
反本質主義とは、その名の通り本質主義に批判的な立場である。ヴィトゲンシュタインが代表的であるので、その議論に立脚する。反本質主義は家族的類似性という概念で説明出来る。家族的類似性は、言語とその意味の繋がりは絶対的なものではなく、部分的な類縁性によって緩く繋がっている事を指す。大阪文化という言葉があれば、それを完全に定義可能な要素の集合体を見つける事は無理だが、たこ焼きやらお笑いやら大阪城とかを、他のものとの違いによって緩く繋がっている事を知る事で、大阪文化を解釈する事が出来る。
つまり、反本質主義的な立場は、他の文化との「差異」によって文化の特有性を解釈するものである。エートスを家族的類似性において再定義したものと言い換えても良い。大阪文化と香川文化を絶対的に区別するものが見つからなかったとしても、「大阪文化らしさ」と「香川文化らしさ」の違いは、比較的容易に見つける事が出来る。それは、民族文化でも伝統芸能でも、何でも構わない。
反本質主義的に文化を見た時、文化を固定化する事がナンセンスであるばかりでなく、現実的に困難である事も分かる。勿論、社会に受け入れられる為に、その文化が持つエートスを捨てるのは本末転倒だが、他の文化と識別するエートスを保ちつつ、変化していく事は可能である(例えば、書道が持つエートス〈書道と言って人々が思い浮かべるイメージ〉は恐らく時間が経つにつれて大きく変化しているだろうが、それが書道である事には変わりが無く、そこには連続性がある、と考えると分かりやすい)。
この見方によって初めて、「継承」と「変化」の両立という側面を考える事が出来る。実際のところ、こうした見方をしなくても長いスパンで見れば大きく変化していくと考えるのが妥当だ。それはともかくとして、固定化という側面に陥り易い「保護」にエネルギーを注ぐよりも、当該文化の当事者は、文脈の探究をする方が、資源の使い方としては効率的だと思われる。
竹内 玄信
大阪市立大学・院生