彼は実証データも見ないで、日本の名目賃金が上がって不況を招いたと信じているようだが、それは間違いである。本書も指摘するように、日本の名目賃金は下がっているのだ。次の図は日本総研の調べた日米欧の名目賃金だが、特に日米の違いは大きく、この15年で80%以上の差がついている。
デフレの原因は新興国の世界市場への登場によって工業製品の低価格化が進んでいることだという野口悠紀雄氏の説明に対して、高橋洋一氏は「OECD諸国で中国からの輸入の対GDP比率はどの国でも上昇しているが、デフレになっているのは日本だけ」だから原因は金融政策だというが、これも間違いである。日本だけがデフレになっている原因は、この名目賃金低下なのだ。80%以上の賃金格差は、この15年で30%程度の日米インフレ率の違いを説明するには十分である。
ほとんどの人は理解していないが、デフレで不況が悪化するのは名目賃金の下方硬直性があるときに限られる。デフレによって実質的な賃上げが行なわれ、企業収益が悪化するからだ。名目賃金が下がっている日本では、実質賃金も労働生産性の低下に従って下がるので、デフレの悪影響はない。したがって著者もいうように、日本のデフレは不況の原因ではなく結果であり、金融政策では是正できない。
賃金が下がっているのは、著者も指摘するように中国との単位労働コスト(賃金/労働生産性)の差が縮まっているためで、これ自体は避けられない。むしろ不思議なのは、欧米では下方硬直性が強いのに、日本で名目賃金が下がるのはなぜかということだ。その一つの原因は非正社員の増加によって時給ベースの(労働生産性に見合う)賃金が増えたことだが、もう一つは中高年社員の賃金抑制だ。しかし彼らはなぜ賃下げを受け入れるのだろうか?
その原因は雇用を守るためだ、というのが本書の説明である。産業別に組織された欧米の労働者とは違って、日本の労働者は企業という「一家」のメンバーだから、収益が悪化すると自分も応分の負担をしようと考える。その結果、企業収益と賃金の比率が一定に保たれ、賃金が業績に応じてアップダウンする一方、雇用は一定に保たれてきた。日本の失業率は4%前後と、主要国ではきわだって低い。
要するに従業員共同体を守るために、労使一体(サラリーマン経営者も労働者)で賃金を中国に近づけているのだ。これはアメリカで製造業の労働者がレイオフされて(低賃金の)サービス業に再就職したのと本質的には同じ労働コスト調整だが、日本のほうが既存の労働者の犠牲は少ない代わり、若者の半分以上は非正社員になるという世代間格差が拡大する。
だから「デフレ脱却」などという政治的スローガンは目くらましであり、本質的な問題は中高年の労働者を保護して若者だけをグローバル競争にさらす日本の政治経済システムにある。本書もこの格差を指摘しているが、その解決策は提示していない。おそらく民主主義のもとでは、あと20年は是正できないだろう。それを一挙に是正するためには、リフレで財政破綻して「焼け跡リセット」するのが早道かもしれない。