「堕した直後、彼女は,『堕した子を、あなたの家に送ろうかな』といって驚かせた。そんなことができるわけがないし、産婦人科医が許すわけはないと思いながら、すぐにも頼みにいきそうな気配を見せる。さらに堕した胎児があまりに愛しかったので、抱かせて貰って髪の毛を少し貰ってきた、ともいう。それを見せてあげようかと、今にも取り出しそうにする。それらがわたしの愛への屈折したものだと思いながら、もしかしてやるのではないか、という不安にかられた。こんな不安と怯えを感じながら、わたしは次第に彼女と距離をおくようになっていた」。
これは小説ではなく、渡辺淳一氏が日本経済新聞に連載中の「私の履歴書」に載った最近の一節である。
渡辺氏は、同じ医局に勤務する看護婦さん(当時は看護師と言う呼称は無かった)と男女の仲になり、妊娠した彼女が生みたいと言い張るのを必死に説得して堕ろさせたと言う。
この描写を無粋に解釈すれば、刑法上の堕胎の罪に相当する犯罪行為にあたる。もっとも、「母体健康法」の例外規定を幅広く適用する日本では、この刑法は全く機能していないのが現実だが。
人間の命が何処から始まるかについても、日本では「胎児は人間ではない」と言う解釈が主流と聞くが、「人工中絶天国」になってしまった原因は、当局が決めた結論に従うだけで、自分で物事を深く考えない日本の世相が影響していると思う。
かなりの未熟児も救える医学の進歩を考えると、「抱かせて貰い、髪の毛も貰える」ほど成長した「胎児」は、やはり「人間」だと解釈するのが常識だろう。
「人間の誕生は懐胎と共に始まる故に、妊娠中絶は殺人である」とする宗教的な保守主義者の主張より、「中絶は女性の権利である」とするリベラル派やフェミニストの意見に近かった私だが、「堕した胎児があまりに愛しかったので、抱かせて貰って髪の毛を少し貰ってきた」と言う渡辺氏のリアルな表現に接し、すっかり迷ってしまった。
いじめや体罰が原因で、幼い生命を自ら絶つという悲劇がなくならない日本では、「胎児は人間ではない」と言う論議で命のあり方を簡単に片付けて良いものであろうか?
私は渡辺氏を批判するのでもなく、中絶の是非の結論を出せと主張しているわけでもない。
ただ、男性のご都合や未成年者による「人工中絶」を当然視する報道に接するたびに、「命を大切にする」と言う政治的な主張と現実が隔離しているように思えてならない。
ましてや、宗教や道徳教育がタブー化され、身近な問題での倫理が論議される機会が少ない日本では、「政治」や「宗教」から離れて、「胎児と人間の区別」「中絶とそれを取り巻く倫理のあり方」について、教育現場や若者を交えた幅広い論議をする事が特に重要だと思う。
「ナイーブな若者ではあるまいし」と嘲笑される事は知りながら、敢えて、日本の「人工中絶」無関心に挑戦した次第である。
2013年1月21日
北村 隆司