林芳正農林水産大臣が31日のテレビ放送でTPPの交渉参加において「(国益を守れない場合は)席を立って帰ってくることを視野に入れればよい」との発言を聞いて平成の松岡洋右が現れたと思った人は他にもいらっしゃるでしょう。
松岡洋右。日本の外交官、外務大臣でありますが、1933年3月、国際連盟総会において歴史に残る連盟脱退の大演説をした人であります。松岡は日本首席全権として国際連盟に望みます。そして日本の主張が世界で通らず、日本が連盟において重要たる地位を占めていたにもかかわらず脱退に至ります。松岡はその後、各国を訪問したあと日本に帰国した際、英雄扱いされたものの最後、A級戦犯容疑のまま病死しています。主たる国際会議の前で席を立つという行為をしたのは私の知る限り松岡ぐらいだったのではないでしょうか?
その松岡の顔が林芳正大臣の顔と重なってしまい、これは失言というよりその資質が疑われる可能性もあります。席を立つという意味が国際会議でどれだけの侮辱と軽蔑なのか、林大臣はその理解に欠けています。世界における交渉というのは論理と論理、そして戦略を十分に立てた上で相手を論破することに意味があります。「俺の言うことが聞けないのか、ふざけるな」的な発想はあまりにも大臣の資質に欠けます。猛省していただかねばなりません。
ところで、林大臣の発言の裏側にはTPPで譲歩を引き出す交渉余地は大して残されていないのではないか、という話がよぎっている可能性はあります。3月のシンガポールのTPP会議の様子が一部もれ伝えられているのをうけてのことかもしれません。とすれば当然ながら安倍首相が知らなかったわけではないでしょう。それにもかかわらず3月15日に交渉参加表明をしています。
ならば、安倍首相と岸信介元総理のイメージがだぶるというのもありでしょうか?
岸信介といえば安倍首相の祖父でありますが、上述の松岡洋右の遠い親戚でもあります。さて、岸首相(当時)が1960年安保に望む時日本中が反対派で大混乱の中、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」というサイレントマジョリティ発言をしています。そして自然成立する6月18日の数日前には騒乱状態でもはやどこにも出られないという中、岸は隠れ、時間をやり過ごし、死を覚悟しながらの日米安保成立でした。また、「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」という名言もあるのですが、このストーリーラインの名前を岸から安倍に置き換えてもおかしくはないことになるのでしょうか?
私には安倍首相が言葉に言い表せないほどのある信念を持って国政に当たっていると見ています。それは気迫として表れているのですが、二度目の首相であること、日本がもはや引き返せないぐらい世界から立ち遅れている現状を立て直すという強い正義感が見えるのであります。
ところで先述の松岡洋右ですが、彼が国際連盟を離脱するのは本望ではなかったという話はあまり伝わっていないと思います。私の理解する限りでは日本側受け手である当時の外務大臣、内田康哉が国内をまとめ切れなかったということであり、松岡にとっては苦渋の選択だったのではないかと思います。林大臣は本望なのでしょうか?
日本が「和」を大事にするあまり間違った答えを出すというのは英語学者、評論家の渡部昇一氏の説でありますが、目先の利益を得ることに「和」の重きを置けばTPP参加は不可能であります。しかし、安保を成立させた岸信介の孫が50年後の日本を考えるという意味で私は安倍首相につきたいと思います。
今日はこのぐらいにしておきましょうか?
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2013年4月2日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。