日本人はなぜイスラム教を誤解してしまうのか --- 島田 裕巳

アゴラ

日本人がイスラム教を理解できないのも、無理からぬところがある。なにしろ国内にはイスラム教徒が少ないからだ。日本人のイスラム教徒となれば、結婚で改宗した人間にほぼ限られる。しかも、大半は女性である。


しかし、イスラム教は、キリスト教に次ぐ世界第2位の宗教である。信者の数というものは、なかなか正確なところが分からないので、判断がつきかねるところもあるが、今やイスラム教徒の数はキリスト教徒に匹敵するという説さえある。

そうである以上、グローバル化が進む現代において、私たち日本人もイスラム教について関心をもち、そのあり方を知っておく必要がある。

ところが、日本人にはなまじ仏教やキリスト教についての知識があることが、かえってイスラム教を分かりにくくしている面がある。多くの日本人は、イスラム教をキリスト教、あるいは仏教に近い宗教としてとらえてしまっている。

たとえば、キリスト教には、信者になるための儀式として「洗礼」がある。カトリックなら幼児洗礼が一般的で、プロテスタントの場合には成人し、信仰をもってから洗礼を受けることになる。

もちろん、プロテスタントでも、それが根づいている地域では、自動的に親の信仰を受け継ぐということはある。だが、そもそもイスラム教では、洗礼にあたるものがない。一応、二人以上のイスラム教徒の前で、「ラーイラーハ、イッラッラーフ、ムハンマドゥンラスールッラーヒ(アッラーのほかに神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である)」と唱えることで入信するとされてはいるものの、実際には、イスラム教が広がった地域に生まれれば、そのまま信者と見なされる。

とくに、イスラム教がキリスト教のカトリックや仏教と異なるのは、聖職者のあり方である。カトリックでも仏教でも、聖職者になるには、生涯独身を守る誓いを行ったり、剃髪し修行を実践するなど、特別な行動を求められる。

ところが、イスラム教には、こうした聖職者は存在しない。イスラム教聖職者と言われる人々は、まったくの俗人で、妻帯もすれば、家庭ももっている。その点では、プロテスタントの牧師や神道の神主に近い。

このことは、イスラム教の本質にかかわっている。キリスト教でも仏教でも、神や仏の支配する神聖な世界と、俗なる世界とが明確に区別されるが、イスラム教にはその区別がない。世界は一つであり、イスラム教という宗教が世俗の世界と別に独立してあるわけではない。だからこそ専門家は、イスラム教とは言わず、「イスラーム」と言う。宗教に限定して考えてはならないというわけだ。

神聖な世界と俗なる世界が一体のものとして考えられているために、俗なる世界を脱して神聖な世界に達するために「修行」をしようという考えも、イスラームにはほとんどない。

イスラームでは、一年に一度「断食月」がめぐってきて、人々は日の出ているあいだ、食事もとらなければ、水も飲まない。唾さえ呑み込まないという所もある。

日本人は、断食と聞くと、それを修行としてとらえがちであり、長くやり続けるほど価値があると考える。ところが、イスラームの断食にはそれがない。イスラームの人々は、定められた断食の時間が終了した途端に食事をはじめる。そして、断食月の食事は豪華で、祭りのような状態になる。日本で言えば、盆と正月が一度に来たようなものである。

メッカへの巡礼にしても、写真を見ると、その光景に圧倒され、イスラームの人々は篤い信仰をもっていると考える。しかし、最近では、メッカ巡礼をした人々がビデオでその光景を撮影し、YouTubeにアップしたりしているが、それを見ると、日本の初詣風景を思わせる。少なくとも、エクスタシー状態で神殿のまわりを回っているわけではない。

イスラームの人々は、たしかに神を信仰し、その存在が世界を成り立たせる前提になっている。しかし、神のメッセージが新たに届くことはなく、神は直接には人間の世界に介入してこない。人間の側は、『コーラン』や最後の預言者ムハンマド(マホメット)の言行録である『ハディース』を通して、神の意思や、どうやって神を信仰するかを学んでいかなければならない。

イスラームは、創唱者がいる世界宗教で、その点では、キリスト教や仏教と共通する。キリスト教と同様に、「最後の審判」のような考え方もある。

しかし、預言者がムハンマドで最後とされたため、新しい神のメッセージを掲げて、終末論的な運動を展開する人物の登場は許されていない。聖霊が降りて、信仰が覚醒されるといったこともない。

そのため、歴史を経るにつれて、宗教運動としての性格は薄れ、イスラームは日常的なしきたりの体系としての面が強くなってきた。礼拝にしても、あるいは断食や巡礼にしても、あくまでしきたりであり、信仰の高まりといったことを必ずしも必要としない。

イスラム教原理主義にしても、それは宗教運動としてとらえるよりも、政治運動としてとらえた方がいい。ニュースなどでは、「パキスタンのイスラム教武装勢力」などという呼び方がされるが、パキスタンはそもそもイスラム共和国で、国民の97パーセントがイスラームである。それは、日本の過激派を、「神道武装勢力」と呼ぶような意味のない呼称である。

このイスラム教武装勢力という言い方が、いかにイスラームに対する誤解を生んでいるか。私たちはそのことを考える必要がある。

島田 裕巳
宗教学者、作家、NPO法人「葬送の自由をすすめる会」会長
島田裕巳公式HP