ワシら宗教に甘すぎるんとちゃうか --- ヨハネス 山城

アゴラ

たとえば事故で死んだ子供の母親が、「ヨハ子は、まだ私のそばにいます。『おかあさん助けて』という声が聞こえます。もうすぐ、私もそっちへいくから、それまで、お父さんと、お母さんと、妹のネス子を見守っていていてね」と言ったとしよう。

そこへ通りがかった、城山博士が「ヨハ子さんは数時間前に心停止しました。あなたのそばどころか、どこにもいません。声が聞こえるというのは精神の異常で、治療の必要があります。『見守る』とおっしゃいましたが、ヨハ子さんの眼球は事故で粉砕され、光の透過自体がなく、見守ることなど二重三重の意味で不可能であると保証します」などと、頼まれもしないのにコメントしたら、親族一同から即袋だたきだろう。


ワシも、許るさん。かなり荒唐無稽な架空の例(何がネス子じゃい)で、しかも自分の作ったキャラに確定的な殺意を感じる、という不思議な感覚まで味わえた。が……この城山センセ。間違ったこと言っているのやろうか。

むしろ、ヨハ子ちゃんの母親のほうが、常識的やけど非科学的、あるいは無意味なことを言っているように思えへんかな。

ほとんどの宗教は死というものの説明を行っている。ヨハ子ちゃんの母親(名前を付けとくんやったな。まだまだワシも駆け出しコラムニスト)のイメージも、アミニズム的な既成宗教のもののコピーのように思う。

科学には限界がある。万能の1m先の部分では全く無能というのが科学の特徴や。特に死については、永遠に何もわからんように思う。

人間、死ねば無になる。これが普通の科学の結論や。無というものの定義に誤解の余地があるなら、言い直してもええ。少なくとも生者とコミュニケーションすることは出来ない、と。しかし、多くの人間はこの現実に不快感を感じる。そして、ある者たちは科学を明確に無視する形で、(もう少し知的な)別のある者たちは、科学者のウラのスペースを狙う形で死後の世界をイメージしはじめる。

たとえば、「死者は生者とは全く別の空間に永遠に存在し続ける」というようなことを考え始める。そやけど、コミュニケーションすら出来ないはずの空間に、死者はどうやって人格や記憶を維持しながら移動できるのか、納得できそうな説明を聞いたことがない。宗教は宗教で壁に当たっている。

そろそろ次のステップに、人類は進んでもええような気がしまへんか。人知を超えた超越的な存在や死後の世界を認めたり、個人的にイメージしたりするのは許容するとして、そうした思想に権威を与えたり、教育の場に持ち込んだり、政党活動を許したり、税制上優遇したり、ましてや他人にそれを押しつけたりするの、ぼちぼちヤメにしまへんか。

宗教というものの位置づけを、風俗店の利用とは言わんまでも、たばこぐらいの存在や、と考えまへんか。吸うのはいいけど、歩きたばこはアカンという感じや。分煙から禁煙は世界の流れ。

ヨハネスをわざわざ名乗っていることからも分かると思うが、ワシ、一応キリスト者や、責任上、この議論の引き合いに、聖書の内容を出そうと思う。「キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した」。……申し訳ないが、普通の現代人が信じられる話ではない。

そやけど、東に震災あればバザーを開き、西に孤児あればキャンプに連れて行き、というような教会活動をしている根っからの善人(やと思う)の、おっちゃん、おばちゃんに向かって、「神さんなんていてはるかどうかわかりまへんで」と言う度胸はない。

「何となく、神様はいてはりそうや」というのがワシの実感なんやけど、それを他人様に説明するだけの元気はない。ましてや誰かを説得する気もさらさら無い。

宗教が道徳や倫理を下支えする、という考え方もある。右寄り教育改革論者にも見られるが、これはある意味やっかいなことや。その宗教の方向性が道徳や倫理と合わなくなった場合、危険極まりない。隣人を愛せ、と言った3秒後に異教徒は殺せ、と言うが宗教や。

大宗教の中では一番、信者同士の絆が強いイスラム教は、残念ながら一番、暴力沙汰の原因にもなっているように思う。

宗教の危険性ということは、我々日本人も無縁では無い。たとえば、靖国神社のHPでは「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」が神社の唯一の目的であるとしている。

慰安所の常連を公言(国家の面汚し)しているヤツでもええのかとか、過剰な侵略で国家の運命を危うくしたヤツでもええのかとか、そもそも負けてもええのかとか、ケチなことは、この際言わん。問題は「慰霊顕彰」や。

内田樹センセは慰霊の方法について、「我こそは正当」であると言ってはいけない、ということを現代霊性論の中でおっしゃていたが、ワシはもう一歩踏み込むで。

はたして、死者を顕彰はともかく慰霊することなど可能なのか。可能であるということを合意事項としてしまって、ホンマにええのか。もちろん根拠などないで。

「国家のために一命を捧げられた方々」に我々は大きな借りがあるが、それを返す方法は無いという、冷酷な事実から目を背けてはならんとワシは思う。死んだ人には何もして差し上げられん。たとえ、英雄の後に続いたとしても、直接慰霊をできるわけではない。何もできんのや。ホンマに何も。

ワシが一番気に入らないのは、靖国の安易さや。戦場に将兵に「死ねば靖国」と言いふらして、戦後は国会議員がカメラ目線で集団参拝。これでOK。小田島隆センセはこういうのを参拝処理と呼んではった。結構な宗教やな。せめて「御霊の安らかさを乱す、政治目的の御参拝は御遠慮ください」ぐらいのことは言えんのかい。

「葉書一枚で兵隊はいくらでも来る」と嘯きながら、安易な功名心から、アホとしか言えんような作戦で屍の山を築くメンタリティーを、戦後の靖国は継承しておるのではないか。危険なことや。国民にとっても、靖国にとっても、宗教全体にとっても。

オオヤケと宗教が結び付くとロクなことがない。政教分離は人類の英知やと思う。これは、宗教の側からも求められることやろ。フランスでは、公共の場所(たとえば、公立学校や職場)での宗教的シンボル(イスラムのブブカやキリスト教の十字架)誇示が、少しずつ禁止されるようになってきている。

一見不寛容のようやが、アメリカや中東でおこっていることを見ると、流血はもうエエ加減にしてほしいから、ややこしいものを持ち込むな、というのは正しいように思う。

我が国の地鎮祭裁判なのでは、玉串料の公金支出などを儀礼の範囲とする判決が多い。そやけど、最初の裁判から何年も経つが、儀礼の範囲を小さくしていこうという努力、見たことがないで。儀礼の玉串「=義理玉」をもらって英霊は喜ぶのかな。

ここまで書いて、自分で愕然としたことがある。「ヨハネス山城」って、宗教的シンボルの提示やないのか。まあ、ワシの記事を読んで「洗礼受けよう」という人はおらんやろ。えっ、三人思いとどまった……放っておいてくれ。けど、けじめというものがある。

ワシ、せっかく売れかけている? のに戒名した方がええのか……。これまで書いたものを読み返してみたが、やはり、キリスト教的な世界観の臭いがプンプンしている。信仰という点では、かなり否定的でも、文化的には影響が強い人間なんやと改めて自覚した。そやから看板を掛け替えるのはムシロ不誠実やろ。そやから「喫煙中」と出しておく。

そやから、アゴラが完全禁煙になったら、「通りがかりのサイエンティスト・ヨハネス山城」をやめて「コケかけバテレン・ヨハネス山城」にしようかとも思うんやが、どうかのう。

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト