今、成長を断念しても本当に良いのか?

松本 徹三

辻元さんの「感情を捨て、冷静な議論をしよう」という記事がよく読まれている。私も辻元さんの議論は好きで、いつも8割方はその主旨に賛成なので、この記事も丁寧に読んだ。


辻さんの議論は、基本的に「エネルギーと食料の供給量には限界があり、今後の技術開発をもってしてもそのコストは抜本的には下がらないので、世界の経済・社会政策はこれを前提に決られて然るべきだ」という考えに基づいており、従って、「日本のような経済先進国は、もうこれ以上の成長は求めるべきではない」という結論に帰結している。私の考えもこれに近いが、普通の人たちはこれでは納得しないので、私は「もっと現実的なメッセージはないものか」といつも考えている。

かつてのローマクラブの「食料危機への警鐘」や、最近の「地球温暖化への警鐘」は、その時々には多くの人たちの耳目を集めたが、具体的で現実的な対応策は見つけられず、やがては忘れ去られていく運命にあった。それよりも、一般の人々の関心は、「株が上がった」とか、「ボーナスが出そうだ」という問題に向かい、毎日の新聞紙上に踊る題字を見て、何となく元気になったり、がっかりしたりしている。つまり、「その日暮らしの毎日」から容易には抜けられないのだ。

「だから駄目なんだ。もっと深く考えよう」と言っても、深く考えれば考える程難しい問題に突き当たるので、それ以上は先に進めなくなるのが人の常だ。私は一概にそれを非難出来ない。

私は長期的な人類の運命については悲観的だし、事態を少しでも良い方向にもっていく為に自分が出来る事は、残念ながらあまりないと思っている。辻さんが心配するようなエネルギーや食料の枯渇がくる前に、恐らく人類は自分たちが作り出した「核技術」や「遺伝子技術」をコントロールするのに失敗し、自滅するだろうと私は見ている。ちょっとした「地域紛争」や「宗教紛争」、或いは一握りの「狂った人間」が、「破滅への連鎖の引き金」を引いてしまう可能性が大きいからだ。それに比べれば、「気候の大変動」等で民族大移動を余儀なくされる程度は、何という事はない。

その反面、「科学技術」がエネルギー問題と食料問題をある程度解決する可能性については、私は数学者の辻さんよりはるかに肯定的だ。地球上には「太陽から放射される膨大なエネルギー」が充満しているので、何らかの方法でこれを電気に変えれば良いだけの事だからだ。一方で、かつて大きな期待を集めた「核融合技術」についても、現時点ではほぼ絶望的と見做されているようだが、未だ全否定は出来ないだろう。もし無尽蔵に近いエネルギー源が確保できるとなると、食料問題も自ずと解決する。鍵は地球上の膨大な面積を占める「海」と「砂漠」だ。

広大な「海」は、陸上にいる牛や豚や羊の数百倍の規模に達する魚や甲殻類を容易に養えるし、半導体技術や素子制御技術で太陽光発電のコストが現在の1/5程度になれば、海岸沿いの砂漠や荒地に発電パネルを敷き詰め、これで発電される無尽蔵の電力を使って逆浸透膜方式の海水淡水化を行う事により、砂漠を沃野に変える事が出来る(無尽蔵の淡水と電力があれば、人口の丘や防風林を作る事によって、気候も局所的にある程度変える事が出来る)。

しかし、こうして作り出した「富」の絶対量の増加を,人類全体でどう分け合うかという問題になると、ここには相当難しい問題がある。突き詰めれば、これは「南北問題の深刻化」という言葉で集約出来るかもしれない。

現時点では、人類は、「民主主義」と「資本主義」が、多くの問題を抱えつつも、「まだ一番マシな選択肢であろう」という認識を、ほぼ共有するに至っている。そして、「資本主義の原理」は本来「唯物的」で、「自然の流れ」に従うものであり、「国家主義」や「民族主義」の壁をすり抜けて、一つの「グローバル経済体制」を作り上げていく必然性を持っている。「法と正義」への信奉や、ある程度の「人道主義」「平等主義」が、世界中で相当数の人々の支持を受けている為に、色々な局面でこれが一つの抑止力となってはいるものの、基本的には、この「資本主義の原理」が、今後の全てのベースになっていくだろう。

しかし、その一方で、異なる人種や異なる宗教の間での「偏見と憎悪」は未だに殆ど克服できずにおり、「かつての恨みを果たしたい」という人間の性が「報復の連鎖を果てしなく拡大している」という事実がある。

「貧困」は、何故か人口増加をもたらすので、結果として「わずかな富を更に多くの人たちで分かち合わねばならない」破目となり、「貧困な人達はより貧困になる」可能性が高い。その一方で、もし仮に、如何なる国においても「民主主義の原則」が守られるとすれば、この貧困な人たちが、それぞれ国の政治の方向を決めていく事になる。しかし、「貧困」は人々を「絶望」させ、「絶望」は「破壊への衝動」をもたらすか、或いは「宗教への依存」をもたらす。「絶望した人々に求められる宗教」は先鋭的になる傾向がある。

「資本主義の原理」は、「雇用」を、「より貧困な人たち」、即ち「より安い賃金で満足できる人たち」へと次々に移転させていくから、理論的には、「熱いお湯と冷たい水が混ざり合えば、やがては全体が同じ温度のぬるま湯になる」のと同じ様に、次第に「全世界の人達に同じような生活水準をもたらす」事になる筈なのだが、実際にはそうはならないだろう。

まず、「貧困」は、人々から、教育の機会、即ち、資本主義が求める「生産性向上」の機会を奪う。次に、如何に資本主義体制が隆盛を極めても、一握りの事業家が作り出す仕事の量と、貧困な人たちの膨大な数との間には、圧倒的なギャップがある。そして、最後に、貧困な人たちを大量に抱えている国では、成熟した民主主義は育ちにくく、その結果として、資本家と独裁者はそれぞれを律する「当然の力学」で癒着し、「貧富の差」はなくなるどころか増大する可能性が高い。

もし仮に、狂信的な独裁者だったヒットラーが、スターリンというもう一人の独裁者との蜜月を維持し、この両者でユーラシア大陸とアフリカ大陸を完全に支配していたとしたら、彼等は平然としてこの問題を解決していたかもしれない。自分たちが「劣等」と見做す民族を、色々な口実を設けて次々に大量に殺戮して、それによって、いとも簡単に人口問題を解決しただろうからだ。しかし、第二次世界大戦と東西冷戦を生き残った我々が、「民主主義」「人道主義」「法と正義」等を標榜する限りは、勿論、その選択肢は最早ない。

中国の独裁政権は、「一人子政策」で、人口問題をかなり賢明なやり方で解決する一方で、「資本主義」を相当うまく活用して、大きな経済発展をもたらしたが、その過程で生まれた数々の矛盾を未だ解決できずにいる。中国人には生まれながらにして経済感覚の鋭い人たちが多く、歴史的にも世界で最も早く(宋の時代に)市場経済を取り入れた実績を持っているが、元々本質的な矛盾を内包する「国家主義(名目上の共産主義)」と「資本主義」の関係を調整していく為には、これから多くの試練を乗り越えていかねばならないだろう。

さて、ここで突然、卑近な問題に目を転じたい。「日本はどうすれば良いか?」という問題だ。 

私も、辻さん同様、現時点での日本は「成長」「成長」と言って騒ぎ立てる状況ではないと思っている。「生産性に対応する生活水準」という点からいえば、日本は中国や東南アジア諸国と比べれば既に十分に高いのだから、今後はこの差が縮まっていくのを「当然の事」として許容すべきであり、自らは、全産業分野でひたすら生産性を少しでも高める努力をする一方で、「海外投資(イコール国内の製造産業等の空洞化)」を促進し、貿易外収支の黒字拡大に努めるべきだと思う。デフレが何年続いていようと、それは本質的な問題とは関係なく、謂わば「どうでも良い事」だったのだ。

にもかかわらず、私が安倍内閣に「もっとまともな成長戦略」を強く求めているのは、既に「大胆な金融緩和策」が実行されてしまっているからであり、成長戦略がなければ、辻褄が合わないからである。同じ様に、私は、かつての民主党政権に対しても「成長戦略」を求めたが、これは、彼等が既に「大胆なバラマキ政策」をコミットしてしまっていたので、それしか辻褄を合わす方法が見当たらなかったからである。

私は、地球の将来に対しては殆ど何の貢献も出来そうにないが、せめて孫たちの世代に「財政破綻」の憂き目を見させる事は防ぎたい。その為には、多少の無理はあっても、今は「成長戦略」の実現にしか希望は見出せない。