医学教育に見る教育の荒廃

井上 晃宏

医学教育批判を書いてきたが、そもそも、現実がどうなっているかについて、まとまったエントリを書いていないことに気がついたので、以下に点描してみたい。


・医学部教員に医学知識がない

冗談のようだが、これは本当だ。医学部教員の大半は、医師国家試験の問題を解けない。もちろん、自分の専門分野は知っている。しかし、それ以外は忘れてしまっている。これは、医学教育においては、役立たずということである。

特定分野の専門家だから、その分野は教えられるだろうということになっているが、マニアックな知識を教えられても、その分野の専門家になる人以外は、一切役に立たない。教科書に書かれている程度の初歩的な知識なら、教わる必要はなく、本を読めばそれで足りる。

・教員が何を教えようが、学生は聞く耳持たない

医学教育では、憶えるべき知識は、国家試験範囲、CBT範囲という形で、明確に規定されているため、学生は自主的に勉強する。自習のための教科書も市販されているので、教員による指導など必要ない。

出席を取らないと、講義の出席率は3割以下となる。出席を取ると、出席率は上がるが、やっぱり学生は講義なんか聞かない。眠るか、内職をするか、私語をするかのいずれかであり、状況はさらに悪化する。母校では、講義が廃止されて、自習主体の教育になった。しかし、自習なら、そもそも学校など必要ない。

・セレモニーとしての解剖実習

解剖によって、学生が人体の構造を学んでいるという話はウソである。学生は、あらかじめ本を読んで憶えていた構造を確かめているだけなのだ。また、実習に供される部分は、人体のごく一部でしかなく、残りは解剖図を見て憶える。自分は、感覚器(目鼻耳舌)も、下半身(性器、泌尿器系を含む)も、脊椎も、脳も見ていないが、仕事ではまったく困っていない。

遺体の脳を解剖したことがなくても、脳外科医をやっている人はいくらでもいる。遺体すら解剖したことのない人が、外科手術では、いきなり人体にメスを入れる。解剖実習など、医学学習とは関係がないのだ。

せいぜい、儀式的な意味しかない解剖実習に、多大なコストをかけ、献体数が足らないという理由で、医学部定員を制限するのは、愚の骨頂である。

・消滅寸前の基礎医学実習

細胞培養も動物実験もなければ、分析実習もない。PCRの演示はあったが、自分で手を動かさない。この教育は、「やった」という事実だけが欲しいのであり、学生に、何かを教えようという教育ではない。

自分は薬学部において、基礎医学実習に相当する実習をしたが、薬学部と比較すると、医学部のそれは、子供のお遊び程度の水準だった。

・教員が指定された教科書を理解していない

分子生物学の講義において、Molecular Biology of The CELLという教科書が指定された。この教科書は1,000ページ以上あるが、高卒程度の科学知識があれば、1ヶ月で読める。大して難しいことは書かれていない。

ところが、この程度の教科書すら、全巻を読める教員がいないので、チャプターごとに、別の教員が講義に来た。専門分野とは関係がなく、機械的に割り当てられただけらしい。担当教員は、あてられたチャプターすら完全には理解していなくて、自分が理解できた部分を適当に講義して帰るだけだった。

この科目も、やっぱり、「CELLで教育をした」という名目だけが欲しいのであり、CELLの内容を教えたいのではない。

医学教育全般に言えるのだが、「ウチの大学はこんなに一生懸命やっています」と社会にアピールすることばかり考えていて、学生に何が伝わっているかは、大して考慮されない。

・100人教室における語学講義

自分がもっとも無駄だと思ったのはこれだ。「医学英語」と称して、医学的内容の文章を読むのだが、語学ほど大教室講義が向いていない科目もない。いかなるマスプロ大学も、こんな無謀なことはしないだろう。これも、教科書が指定されているだけで、教員は毎回別人だった。継続性も体系性もない。

・教員不在で何も教育が行われなくても、単位だけは出る

ある科目において、担当教員が都合が悪いという理由で、講義がすべて休講となった。代講の手配は行われなかった。必修科目の単位認定をしないと全員が卒業できなくなるので、○×クイズ式の名目的な試験だけで、単位が出た。自分は、4つの大学に入学しているが、こんな体験は始めてだった。放送大学ですら、こんなことはありえない。

大学紛争時のロックアウトされた大学では、同様のことが行われたと聞いているが、それは非常事態である。今は平時だ。

自分がその時に感じたのは、「全科目が休講でも困らないだろう。むしろ、休講の方が、勉強する時間ができるので、学力が伸びる」ってことだ。

・臨床実習は職場見学をしているだけ

1日病棟に張り付いて頭に入る知識なんて、本で読むと3行くらいだ。まじめに実習をしても、ほとんど意味がないので、学生は図書室で本を読んで時間を潰している。医学知識の習得と臨床実習とは、全く何の関係もない。

但し、臨床実習には、業界事情を知るという意味がある。業界事情は活字になっていないが、知らないと、就職の際に痛い目を見る。精神科医の和田秀樹氏は、ほとんど学校に行かずに医師になってしまったので、就職で失敗したと著書に書いている。

・結論

国家試験受験資格を独占している限り、どんなに教育が荒廃していても、養成学科は存続できる。仕事に必要な知識は、自分で本を読んで憶えるしかなく、学校教育はセレモニーと化していても、迂回できないため、学生はそこに通わざるをえない。

法科大学院批判で有名な黒猫のつぶやきにおいて、黒猫弁護士は、「法科大学院とはAKB48のCDのようなものだ。握手券(卒業)にのみ価値があり、CD(教育内容)はゴミだ」と喝破したが、それは大半の資格教育系学科にあてはまると思われる。

法科大学院は、予備試験という迂回ルートに法曹志望者が流れているために、崩壊しつつあるが、迂回ルートがない医学教育よりも、むしろこちらの方が健全だ。なぜなら、迂回ルートがあれば、複数制度間の比較が可能になるからだ。

比較対照試験すらされていない薬や治療法を、私たちは採用し続けていいものだろうか?

井上晃宏(医師、薬剤師)