終戦の日に思う、年金給付をやめるという「選択」

伊東 良平

小学生のころ、終戦の日は毎年親の実家で過ごしていた。祖母から戦争時の体験を聞き、戦争とは何かを子供ながらに考えていた。祖母は戦争体験を説教するように話すタイプではなかったが、テレビで第二次大戦の特集番組や戦争映画を見ている私に対し、当時の逸話をさりげなくささやいていた。そんな祖母も今は認知症で、当時の話をすることはできなくなっている。

さて、日本にはいずれ、公的年金か国家財政のどちらかを”破綻”させなければならない事態が来るであろうが、そのときが何時になるかはだれにも予測できない。日本の財政悪化は年金や社会保障の国庫負担の増大が主因であり、年金給付の増大を増税では賄えない事態がいずれ来ることはほぼ予測がつくが、それがどのような形で”解決”されるのか、現状から予測できる者はいない。インフレにより国家の実質債務を軽減するにしても、インフレに連動した年金給付ができなくなるという意味で、公的年金の破綻に該当する。現在のムリな政策を続けられないことは、容易に想像がつく。いずれ何らかの苦難を選択しなければならない。

国自身の分析(連結財務諸表)では、平成24年3月末現在、日本国は約441兆円の債務超過になっている。

国は最終的な信用供給主体だから、「資金繰り倒産」は生じない。しかし、年間の租税収入(45.2兆円)と社会保険料(39.3兆円)の合計の約5年分の将来の国家予算を、現在の為政者が拘束している状況であり、将来の財政運営が行き詰まることは明らかだ。もちろん国は、国家の主権を最終的に守っている主体であり、国民から私有財産を奪えば(増税を含む)幾らでも資産形成できるので、債務超過であること自体は問題ではない。とはいえ、国家債務の増加率がインフレ率以上になる状況を維持し続けることは不可能だ。

国の行政コストに占める目的別の割合をみると、社会保障給付が32.6%(45.3兆円)、補助金等が32.4%(45.1兆円、自治体や健保組合などへの補助で、社会保障目的の補助が27.3兆円と多い)となっている。「財政健全化」のためには、社会保障のカットが必須であり(因みに人件費は、連結対象の外郭団体の人件費や退職給付の引当金繰入を含めても10.4兆円程度であり、人件費を削減しても財政健全化の効果は薄い)、誰が政治家になろうとも選択の余地はない。

では、公的年金の給付をやめる、という選択はあり得るだろうか。1930年代に、日本が中国から撤退する、という選択をするのと同じくらい困難であろう。

いまから考えれば当然そうすべきであったと思える政策も、当時の世論や為政者のムードからすれば、そのような選択をすることは不可能であったろう。先の戦争の原因は「軍部の暴走」ではなく、日本列島の外に権益を持つあらゆる「国民」が、「既得権」を放棄することができず「現状維持」と「拡大」に 邁進したことが原因ではなかったか。

どのような政策も、それが「国民の総意」である限り、惰性に逆らうことができず何らかの破滅にむかうのが世の常である。日本の財政と公的年金は、将来何らかの「リセット」が必要になるであろうが、それがどのような形になるのかは予測できない。年金の支給停止(あるいは大幅減額)になるのか、日本銀行が無尽に国債を買取って円安インフレになるのか、国会が国債費を承認せずデフォルトするのか、どのような形であれ、国が混乱するのは確かである。

また、その混乱によって、全ての国民が不利益を受けるとは限らず、新たな価値観とパラダイムの芽生えにより再生のきっかけとなることも確かである。第二次世界大戦に関し、日本人にとっての不幸は、戦争そのものであり敗戦ではなかった。財政問題の「終戦」は、どのように迎えることになるのか予測が困難であるが、増税による不況と円安による資源インフレが長期に続くスタフグレーションの”茹でガエル”状態に日本人が置かれるとすれば、そのタイミングは意外と遠い将来なのかもしれない。10年後かもしれないし、30年後かもしれない。

2030年がひとつの岐路になるだろう。戦前生まれが米寿を迎え、高度成長期(1970年頃)生まれが還暦を迎える。高度成長期に作られた土木構造物が60年経過する。バブル崩壊(1990年頃)後生まれが中年にさしかかる。何より団塊世代のみなさんが喜寿を迎え、人生を全うしこの世から去られ始める。であるならば、(戦後生まれの)団塊世代のみなさんに、「未来を憂う」ことをやめていただければ、この問題は案外容易に解決できるのかもしれない。

伊東 良平
不動産コンサルタント