タクシーと新聞? 全く関係ねーじゃねーか、お前馬鹿か! と言う2チャンネルの声が聞こえて来そうだが、少しご辛抱願いたい。
最近、「新聞の公共性に関する研究会」と言う「有識者グループ」が、新聞の公共性を理由に軽減税率を適用すべきだと言う意見書を発表した。
新聞は権力から独立して初めてその自由と公共性が担保されるが、2013年度の「報道の自由度ランキング」では日本は53位にランクされ、長期に亘り血に塗られた圧政下にあった韓国(50)南アフリカ(52)アルジエンチン(54)と順位を競り合っている事実に唖然とした。
日本に報道の自由が必要である事は言うを待たず、経済的な恩恵を与えることで新聞の自由度が改善するのであれば「軽減税率適用」には諸手を挙げて賛成である。
果たして実際はどうであろうか?
大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として「東洋経済新報」を率いて厳しい言論統制と闘い続けた石橋湛山は
国民に対して政党政治を嘲笑することを教えたのは誰でもない新聞自身だ。夕刊の三行評論と称するものは、自己に見識も、政策もなくして、ただ野卑なる罵声を浴びせる習癖を養うにすぎない。彼等は唯だ低級なる読者の歓心を買うために、知らず識らず議会を排撃し、言論の自由を自ら失うことに努力しているだけである。試みに朝日、毎日を開いて、これを西洋の大新聞と比較してみよ。日本は果たしてその新聞文化の発達を、世界に対して誇り得るであろうか。雑誌についても同じだ。マルキシズムが流行すれば、訳も無くマルキシズムの流れに従う。ファッショの波が盛んになれば又これに従う。そこには節操も、独立性も殆どない状態だ
と報道の堕落を厳しく指弾したが、この指弾は現在の新聞にもそのまま当てはまる。
報道の自由が日本で上手く機能しない理由には、新聞人の堕落以外に文章の責任を記者ではなく会社が持つ「文責在社」構造がある。
「文責在社」で記事の責任を追及される事をおそれる新聞社は、記事の社内統制を強めると同時に自社に損害を及ぼしそうな話題には触れず、同業他社や権力への批判を避ける不文律を作った事が、公共性に欠かす事の出来ない自由で開かれた報道の成長を妨げる日本独特の「報道タブー」を生んだ原因である。
それに反し、言論先進国では記者(表現者)に記事の責任と成果が帰属するため記者個人の競争を促し記事が多様化し、これが報道の自由を担保して来た。
ここで、日本の新聞と権力の癒着の具体例に触れてみたい。
片岡正巳著「新聞は死んだ」(日新報道刊)を読むと、報道の自由を法的に保障した新憲法発布と共に権力から独立した報道に向かい着実に進歩していたと思ったのは大変な誤解で、実際は大規模な癒着が進んでいた事が良く分かる。
大手新聞社が東京の一等地にある国有地を大安値で譲り受けそこに東京本社を構えているだけでなく、買戻特約条項付きの10年分割払いに至るまで、譲渡条件が全く同じだと聞けば「官報」癒着を疑う余地はない。
朝日新聞は大蔵省から計1万4680平方メートルの土地を10年分割の買戻特約付きで払い下げて貰い、抵当権者は大蔵省だ。読売新聞の場合も大手町にある総計六千百九十六平方メートルの土地を朝日と同じ条件で譲り受けたが、当時の坪当たり価格が600万円と評価された土地をなんと83万円で手に入れている。毎日、サンケイそして日本経済もこの点では全て横並びだ。
国有地の払い下げが経営レベルでの権力との癒着なら、記者レベルでの腐敗の象徴は記者クラブ制度である。
所謂「記者クラブ」制度は、法人化も責任体制も透明性もない単なる特定の記者仲間の集まり(任意組織)である。それでいながら、中央省庁・国会・政党を初め、企業・業界団体、地方自治体の役場など800を超える専用の記者室を取材対象側から無償で供与されるだけでなく、情報提供も独占的に受けている様は、幼鳥が巣箱で親から餌をもらっている図式に近い。
官庁が負担する記者クラブの経費は、最低でも年間110億円を超えると言われるが、これは「税金の無駄遣い」と言うより贈収賄による「報道管制」と言う犯罪として取り締まるべき物である。
新聞協会の倫理綱領(http://www.pressnet.or.jp/outline/ethics/)には「新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。」と書いてあるが、次のエピソードを読めばこれが空文に過ぎないことが良く分かる。
鉢呂経産相が福島を視察した後のぶら下がり会見で不適正発言をして辞職に追い込まれた記者会見で、時事通信の鈴木隆義記者は鉢呂経産相に向かって :
「定かな記憶がないのに辞めるんですか。定かな事だから辞めるんでしょう。きちんと説明ぐらいしなさい、最後ぐらい」
「何を言って不信を抱かせたか説明しろって言ってんだよ」等と大臣を怒鳴りつける場面がインターネットで伝わった。
あるフリー記者(記者クラブに入会できない記者)が「国民の代表でも何でもない一記者が、国民から選ばれた大臣に暴言を吐く。これは国民にとって重大な事件だ。だが、この会見がフリージャーナリストに開放されていなければ、国民はこの事件を知ることは永遠になかっただろう」と述べたが、私も同感である。
これ以上例を挙げるのは省くが、添付した市議会議員のブログが本当なら、毎日新聞の馬場茂記者は報道人と言ううより、暴対法の対象人物に近い。
「例外を取り上げて針小棒大に騒ぐな」と思われる方は、言論と報道の自由は小さな綻びから崩れた歴史があった事と「良心には、多数決の法則は当てはまらない。」と言ったガンジーの言葉をかみ締めて欲しい。
全国の新聞記者の数は東京ドームに入りきれない5万人を超えるが、横並び記事を書くのにこれだけの人数が必要だとは思えない。
その点、厳しい競争の中で従業員の訓練と顧客へのサービス向上に腐心しているタクシー業界とその従業員に政府が下した裁定が「減車」だとは考えさせられる。
「公共」と言うと誰もが分かった気になるが、「公共」と「個」の線引きは福島原発問題で表面化した様に結構むずかしい。
そこで次回は「新聞の公共性に関する研究会」が挙げた項目毎にタクシーと新聞の公共性充足率を比較検討してみたい。
2013年9月8日
北村 隆司