9月29日日曜日の『聖教新聞』のトップ・ニュースは、「関西 滋賀メモリアルパーク 2016年春の開園へ着工式 原田会長が出席し鍬入れ」というものだった。これは、2016年春の開園をめざすもので、開発面積は45・04ヘクタールに及ぶ、かなり規模の大きなものである。
創価学会では、すでに全国13箇所に、滋賀と同様の墓地公園を開設している。ほかに、長期収蔵型納骨堂と永久収蔵納骨堂も設けている。私は一度、富士山麓にある富士桜自然墓地公園を見学したことがあるが、広大な敷地のなかには、白御影石を使った少し横に広い同じ規格の墓地が建ち並んでいて、壮観だった。
富士桜自然墓地公園の場合には、122ヘクタールで、規模は滋賀の3倍近い。1980年10月に完成したもので、この場所が選ばれたのは、当時密接な関係があった日蓮正宗の総本山、大石寺に近かったからである。
1990年代のはじめに、創価学会は日蓮正宗と事実上決別し、その後、両者はお互いを激しく批判し、非難してきた。最近ではその面は沈静化しているが、創価学会は日蓮正宗との関係が切れたことで、人を葬るということにかんしても、独自路線を歩まなければならなくなる。
それまで、創価学会の会員が亡くなれば、日蓮正宗の僧侶が葬儀の導師をつとめてきた。しかし、決別すれば、日蓮正宗の僧侶を呼ぶことができない。そこで考案されたのが、学会員だけで葬儀をあげる「友人葬」だった。学会員は、毎日『法華経』と「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、それは「勤行」と呼ばれる。友人葬では、集まった人間が勤行を行い、それで僧侶による読経に代えるのである。
一般の仏教式の葬儀では、死者は戒名を授かることになるが、僧侶が導師としていなければ、それはできない。創価学会のなかでは、戒名をどうするかで議論もあったようだが、それは仏教本来のものではないと結論づけることで、戒名を不要とした。
バブルが崩壊した1990年代はじめは、さまざまな形で葬儀の革新、刷新が起こった時期だが、創価学会の友人葬も、従来の仏教式葬儀に異議を申し立てた点で、その流れに乗ったものだった。友人葬は、創価学会の会員にだけ限定されるものではなく、頼まれれば、会員でない人間の葬儀も行うという。
こうした点では、創価学会は葬式仏教からの離脱をめざしたとも言えるが、その後、独自の霊園の造成を続けてきた。果たしてそれは、葬式仏教からの離脱と言えるのか、それとも創価学会自体が「葬式仏教化」しているのか。今やそれがかなり怪しい段階に入ってきている。
創価学会に大量の会員が入会したのは、高度経済成長がはじまった1950年代半ば以降であり、1960年代、70年代が最盛期だった。したがって、当時の創価学会には年齢が若い会員が多く、亡くなるような人間はまだ少なかった。
したがって、創価学会の霊園ができても、そこに墓を求めるのは、まだ死者がいない家だった。したがって、墓石の下にはまだ誰も葬られていない時代が続いた。
しかし、年月が経つことで、最盛期に入会した会員たちも亡くなる時期を迎えた。統計的な資料はないが、『聖教新聞』を見ていると、毎年、彼岸や盆の墓参りが盛んになっているように感じられる。新たな墓地の建設が行われるのも、そうした事態を反映してのことだろう。
近年、創価学会に入会するのは、会員家庭の子弟がほとんどを占めるようになってきた。新たな会員は増えていないのである。会員を獲得するための「折伏」も、すっかり影を潜めている。創価学会は、今や「家の宗教」になりつつある。
家の宗教で重要なのは、「祖先祭祀」である。創価学会はこれまで、祖先祭祀には関心を向けない宗教だったが、それぞれの会員が墓地をもち、そこに墓参りに行くことで、そちらに傾いている。会員なら仏壇を必ず家に設けている。そこには、「御本尊」と呼ばれる、日蓮が書いた南妙法蓮華経の曼荼羅の写しが掲げられるが、その横には故人の位牌も安置されるようになっていることだろう。
創価学会は、葬式仏教を直接に批判する運動を展開したわけではないが、既成仏教に対してはそれを徹底して攻撃した。それは結果的に、葬式仏教批判に結びつくものだった。友人葬までは、その流れのなかに位置づけられる。
しかし、現在の創価学会は、墓地を運営することで、一般の葬式仏教と変わらない形態になっている。そこに僧侶が介在しないというだけである。それは、創価学会から革新性が失われたことを意味するのではないだろうか。
島田 裕巳
宗教学者、作家、NPO法人「葬送の自由をすすめる会」会長
島田裕巳公式HP