古代ギリシャで民主主義の産声が生まれ、そしてローマで法治国家体制の原型が構築された。そして人類の救済という名目で宗教が世界各地で生まれた。それらは今日、いずれも危機に瀕している。ギリシャは欧州財政危機の震源となり、イタリアではベルルスコー二元首相が有罪判決を受けるなど、法体制は政府関係者トップの腐敗で大揺れとなっている。一方、人類の救済を提唱してきた宗教界もこの世の煩悩に囚われ、その神性はその残光のみとなってきた。
北アフリカ・中東諸国の民主化運動に直面した欧米諸国は、「民主社会の確立」をそれらの国々に求めるが、「民主主義の限界」を薄々感じているから、その要求ももうひとつ迫力に欠ける。法治体制では、組織犯罪からインターネット犯罪まで、法を潜り抜けようとする者は後を絶たない。新しい犯罪が生まれる度にそれに関連した新法案の作成に乗り出すといった具合だ。最も聖なる社会機関と受け取られてきた宗教も、団体となった瞬間、多くの問題が生じる。世界最大のキリスト教宗派、ローマ・カトリック教会では聖職者の未成年者への性的虐待事件が多発し、バチカン銀行は不法な経済活動の容疑を受けるなど、スキャンダルは次から次と生まれてくる。
簡単に表現すれば、民主主義は混迷を極め、法治体制は傾き、宗教は無神論者をつくり出す、という現状だ。その度に、民主主義の刷新、法治体制の強化、教会の改革といったスローガンが掲げられ、解決を模索する動きが生まれてくるが、解決されたことは一度もない。問題は深刻化するだけだ。
民主主義の要である選挙を考えてみよう。民主国家の選挙では人気取りや空公約が吹き荒れる。一方、有権者の国民は自身の利益を国家の命運より優先するから、どうしても目先の空約束に動かされる。その結果、誕生する新政権は前政権と同様、同じような失政と解決能力の無さを暴露する。
幼児洗礼を受けたからといってその人が将来、敬虔な信仰者となる保証がないように、選挙という洗礼を受けて選出されたからといって、その政治家が正しく国家を主導できる保証などまったくない。
ひょっとしたら、試験用紙に記された質問に対する解決の順序が間違っているのではないか、とそろそろ考えるべきかもしれない。民主主義の理想は決して間違ってはいない。法治国家体制もそうだ。宗教の教えも人類を救済するという点で立派な心構えだ。問題は、そのシステム、体制、機関の修正や刷新ではなく、それらの理想を破壊し、混乱させている主因へのアプローチではないか。ズバリ、人類の遺産を台無しにしているのは何か、という問いへの模索だ。
マザー・テレサは「問題は他にあるのではありません、われわれが問題です」と明瞭に語っている。最終的には、その通りだ。システム、体制が問題ではなく、われわれ一人ひとりが問われている。
それでは「われわれの何が問題か」ということになる。虚偽、利己主義、傲慢、偽善、憎悪など、日常生活で常に見られる人間の所業が理想の実現を妨げているのではないか。そんなわれわれが民主主義を叫び、法治国家を構築し、理想的社会を訴えたとしても、時間の経過と共に綻びが出てくる。綻びが出てくる度に縫い合わせるが、綻びが大きくなり過ぎて、修復できなくなってきている。
それでは、どうしたらわれわれは良くなるだろうか。換言すれば、利己心を管理し、隣人への愛を実践できる人間となれるか、といった問題を真剣に考えなければならない。民主主義、法治国家問題について、多くの学者たち、政治家が頭を悩ませているが、「どうしたらわれわれは良くなるか」について、宗教家に委ねるだけではなく、われわれ一人ひとりが真剣に考え、答えを見出すべきだろう。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年10月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。