松本徹三さんの「日本人と韓国人はどこで性格が大きく変わったのか?」に触発され、全く私的な仮説なのですが、以下に整理してみます。多分、この領域を専門にしておられるアカデミアの方もおられることと思うので、もしより確かな学説、研究論文等の情報をご存知の方、コメント欄にてご教示いただければ幸甚です。
(以下の画像は、コチラのブログからお借りしました。)
日本(特に西日本)において港町は、中國語の影響を受けて「津」のつく地名が多い。南西諸島をたどってたどり着くのが九州の「坊の津」。瀬戸内海の終着点は「摂津」の国だし、内海である琵琶湖には「大津」があり、伊勢の海から東国に漕ぎ出す地は三重県の「津」。その先には静岡県の「沼津」があり、伊豆半島を迂回して相模灘をわたれば房総半島の「富津」「君津」「木更津」にまで至る。
もちろん中國本国には、首都北京の港町として「天津」がある。
ひるがえって、関東の利根川河口の低湿地帯には「戸」が着く地名が多く、これもかつての「船泊まり」「渡し船」「渡河点」の位置と関連している。いちばん有名なのはもちろん「江戸」。私の実家のそばには「青戸」と「亀戸」があり、また「松戸」の先、常磐線をたどれば「水戸」に至る。
この「ド」や「ト」音で終わる「戸」が着く地名は、「ヘ」や「ベ」音で終わる地名、例えば「神戸」や「八戸」などとは由来を異にしていると思われる。
じゃぁ、これらの地名の由来はなんなのかと考えたとき、韓国語で船着き場を示す「부두」(「ブドゥ」)なんじゃないかと思いついた。
奈良時代から平安時代を通じて、関東は朝鮮半島からの戦争難民・移民の受け入れ先だった。かつて埼玉県にあった高麗郡の地名はまさにその名残りだし、埼玉の前身、武蔵の国には新羅郡もあった。(埼玉県志木市の「シキ」はその名残り。)
こう考えると、坂東の地は、先住のアイヌ人たちと、半島の朝鮮民族、そして皇室の末裔としての平将門などに代表されるヤマト人たちのとの間で複雑怪奇な混血が進んだ、意外とコスモポリタンな地だったんじゃないかと思えてくる。
のちの後三年の役(1083~1087)にて、アイヌ系と思われる奥州清原氏を相手に苦戦した兄、「八幡太郎」義家を助けるために、京における官位を辞して関東に馳せ参じた源義光は「新羅三郎」と呼ばれた。これは大津三井寺の新羅明神で元服したことがその由来となっているということだが、朝鮮半島系の植民が多くいたであろう関東の地で兵を募るのに「新羅」の名乗りは効果的だったのではないだろうか。なお、三井寺(園城寺)の国宝新羅明神座像(秘仏)は、朝鮮人の身なりをしていて、一説には元は新羅の土俗の神だという。(また持っていかれないように気をつけましょう。)
「しかし朝鮮を馬鹿にするのも。ただ近来のことだヨ。昔は、日本の文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは。尽く朝鮮人に教はったのだ。いつか山梨県のあるところから、石橋の記を作ってくれ、と頼まれたことがあったが、その由来記の中に「白衣の神人来たりて云々」という句があった。白衣で、それで髯があるなら、疑ひもなく朝鮮人だらうヨ。この橋が出来たのが、既に数百年前だといふから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だったのサ。」
勝海舟「氷川清話」