山本太郎議員の直訴は何かを変えるのか --- 岡本 裕明

アゴラ

原発で被害にあった地域の現状を直訴した手紙を園遊会の際に天皇陛下に手渡した山本太郎議員に厳しい批判が集まりました。ネットの一般の人を対象にしたアンケートでも8割以上の人が批判的でありました。では、山本議員は何を間違えたのか、視点を変えてもう一度考えてみましょう。


宗教の世界において神と一般人が直接話すことは出来ません。そこで聖職者なる人がその介在をします。キリスト教のカトリックでいう神父さんやイスラム教でいうウラマーであるかと思います。それは神を神聖化すると同時に象徴であり続けるために俗世間との距離を置き、神と接触できる特別な地位にいる人だけがその間を取り持つことが出来るのです。

天皇陛下は勿論、神ではなく人間天皇であります。陛下はしばしば日本の各地を回られ多くの国民と直接接点を持たれ、声を掛けておられます。その点においては宗教上の聖職者と比較することは正しくないかもしれませんが、常に尊厳と威厳をもって崇められている点において日本人の心であるわけです。それは陛下に対して何か申し上げるのではなく陛下からお言葉を頂戴するという受身の姿勢であります。陛下がいろいろなところを訪れた際、説明役を買っている人はあくまでも事実を述べる説明係であり、意見を発するのではありません。

仮に陛下に直接モノを申し上げるようなことになれば陛下の位置づけはまったく変わりそれこそ日本の歴史観を変えるほどの話になってしまうのです。だからゆえにこれだけの批判が集まったわけです。

ところが山本議員は悪意なく単に陛下にお会いできるチャンスだからこれを逃してはならないという気持ちが先行してしまいました。一言で言えば思慮不足、もう一言足せば議員としての才覚に欠けるということでしょう。議員、特に国会議員とは何でしょうか?国民を代表し、国会を通じて日本をよくしようとする職を全うする者であります。多くの日本人を代表している以上、人間として、或いは議員としての人格を持った振る舞いが必要になってきます。これが最低限の立候補資格なのです。

山本議員の場合にはその当選する経緯からして選挙の終盤で激しい追い込みでヤフーがビックデータを駆使してほぼ完璧な予想をした中でわずかにはずしたケースのひとつでした。それは多くの国民が深い関心を持つ原発という一点に絞り込み、一部の層の地盤を崩したと見るべきです。それは選挙戦としての戦略は正しかったかと思いますが、議員の品格について考える余地はなかったということではないでしょうか?

ただ、それより重要なことは山本議員が天皇陛下に「直訴」する手段まで考えた理由に、原発問題について最短距離でしかるべき人に議員としての自分のボイスを聞いて頂きたいという気持ちがあったのでしょう。無所属で派閥意識の塊である国会議員の世界において新参者が何か専門的な分野に立ち入る余地はほとんどありません。であるからこそ、議会を飛び超えてしまったともいえるでしょう。

そうだとすれば山本議員を支持した市民はやってくれたという嬉しさもあるのかもしれません。

多くのベテラン議員は想定外のタブーな方法をとられたことへの怒りが爆発したということです。とすれば山本議員は国会議員の体質についてユニークな風穴を開けたと取れなくもありません。こんなことが許されるわけがないと一方的に断罪するのは片手落ちでしょう。議員や国会の体質そのものが今回の問題に繋がったと考えればある程度の落としどころは出てくるのではないでしょうか?

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2013年11月3日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。